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【土呂夢小説集 Ⅰ】立ち読み
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2011年12月31日 (土)

土呂夢小説集 Ⅰ の 立ち読み

憂き城物語 (240枚)

                              
                             杏 土呂夢(あん どろむ)


1. 夜行列車で   

「ところで、あなたはどちらまで?へへへ…」安見が言っている。「なんなら当てて見ましょうか」
「T市です」と二郎が言う。「正確に、T市なのかどうなのか、その点はまだ分からないんですが…ですが、まあT市です」
「・・まあ、T市ですか、まあ、ね」と安見。「もしかすると、あなたは初めてそこへ行く。違いますか。そうでしょう。生まれて初めてね。へへへ…あなたの、『まあ』には、まあ、そういった響きが、秘められていますね。ところで、その点私は、T市じゃありませんよ。T市と言っても別に不都合はないんですが、やはりT市じゃありませんねえ。というのも、これは一種のルールみたいなもんですからな。あなたがT市なら、わたしはT市じゃない。ヘヘヘ…つまり行き先が同じじゃ、どうもこの面白い話は望めない。まして深刻な打ち明け話でもかりするとしたら、ですな。…要は、これは、ある種のデリカシィの問題です。…ところで、あからさまに言って、あなたは稀に見る懐かしそうな方ですね。私はO市駅以来、まあ、そんなこたどうだっていいんですが、乗り込む前からですな、つまり、プラットホームで並んでいた時からです、あなたの風貌に惹き付けられていました。あなたは感じがいい。あなたの両眼にはほほ笑みがある。つまり、人間らしい顔ですな。というのも、私などは、私は時折、鏡の中の自分の両眼を見つめますが、私などのは一体に、てんから人間らしい目つきをしておりません。それは人間らしい心情を持っていないからでして、つまり、人間らしい、その、生活を、日々営んでいないからです。私の眼なんぞには、真の笑みなど、このところ、ついぞ浮かんだためしがない。もっとも、偽りの奴ならしょっちゅうですがね。これはもう朝から晩まで、もしかしたら眼をつむって眠っている時でさえ、もし、目蓋をひんめくって、そんなこた不可能ですがね、もし目蓋をひんめくって覗いてでもみたら、やはり偽りの微笑を浮かべているかもしれませんよ。ちょうどロシアでは、なにかトランプのスペードの女王すらが、悪意の微笑を浮かべたらしいそうですからな。もっとも、話があまりにも極端に飛び過ぎますんで、さぞかしあなたは、私が馬鹿で、かつ気違いだろう、と考えられているに違いありませんが、まあ、いいじゃないですか、何と言ったって、夜行列車の中ですからな…それに行き先が違っている。これは重要な点です。またたとえ行き先がすっかり同じだったとしても、再び出会うなんぞということが一体考えられますか。これはもう確率的に確かです。ほかならぬ、確率的に、ですな、へへへ…さてと」安見はポケットからたばこを取り出した。「いかがです?喫わない。あなたはたばこをやらない。そうでしょうとも。まったく予想通りです。私は『こいつは、たばこをやらんな』とこう最初ひと目見た時から、思っていましたよ。結構。もっとも『こいつ』などと、つい、あなたを呼んでしまって、失礼。さて、それでは一つ、あなたにこれをお見せしましょう。とやかく言うには及びますまい。私がどんな人間で、どんな人生を送っていて、実際、私は自分の人生に全然実感がないんですがね。そのくせもう有頂天になっていましてね、一秒一秒、なにか自分の人生が目的からずれて行っておりはしまいか、とこう不安になっている、まあ、こういったあのよくある連中のうちの一人なんですがね。その実、目的なんぞありゃしない。ただ常に、いらだっているばかりなんです。…ところで、さて、これです。どうぞ、ちょっとこれを、手に持ってくれますか」
二郎は一体何だろうと思った。安見が二郎の手に無造作に手渡してきたものは、部厚い、かたい一万円札の束だった。それはおそらく三百枚は下らなかっただろう。
「札です。札です。えっ?どう?どうです?率直に言ってみてください。あなた、どうしたんです。感想は?そうほほ笑むだけじゃなくって、なにか、暖かい、感極まった、なんて言うんですか、その、『これは、まさしく…』とか、なんとか…あなたは、あなたは、ひとことも言ってはくれないんですか」
二郎は、何もかもがあまりに唐突に起こってくるので、面食らってしまっていた。そして、どうしたものか不思議に、二郎には、その時、一万円札のシックな色合いとか、繊細な模様、そんな美的な側面ばかりが、やたら鮮明に目についた。二郎は安見に、そのことを伝えた。すると安見は「なに、あなたは、色調を言いますか」と言った。そしてその顔は急に毒々しくなって、独り言のように「思った通りだ」とつぶやいた。安見はじっとしていた。まるで、我を忘れているといった風だった。しかしすぐにほほ笑みをとりもどし、再び二郎にしゃべり掛けた。
「私が告白って言ったのは、こいつにまつわり付いているのです。つまりその、この金をですな、私はこの金を一瞬のうちにつかみ取りましたが、K市のはずれにYというところがありますが、競馬ですな、そこには競馬場があります。つまりわたしはこの金を競馬場で手にしたのです。私は三年間というもの、この日のために、馬鹿になって勉強にはげみました。統計学、推計学ですな。それこそ明けても暮れても気違いみたいになってこの研究、つまり馬券学ですな、こいつに打ち込んできたのです。成功への夢は、その間、私の心臓のうちにあって、焔のように燃え続けていました。夜な夜な、孤独のうちで、誰にも知られず、この夢の実現に心血をそそぎました。私は数学の各種の理論、方法を手当たり次第に吟味して行きました。時には、馬券学なんぞとはてんで関係のない、糞面白くもない分野に、頭を突っ込み掛けていたこともありましたが、無駄足踏むってやつですな、実際、ところが、そうこうしているうちに、ランダム・ウォークって理論にぶっかりました。『盲歩き』くらいの意味でしょうか、はははは…フランス語が出来ないので、常々、英訳本で読んでいましたが、こいつ、『盲歩き』ですな、こいつはもともとアメリカ生まれであったに違いありません。それはともかく、こいつのうちに、私は全き理論、夢の法則、つまり分析から実践への理論、即ち、過去の資料の分析…過去の資料などと言えば大げさですが、分かりやすく言えば新聞ですな、競馬新聞ですな、『B』とか『N』とか、そりゃその道に入るとその道で、また色々とあるものです。もっとも、あなたなんぞには、一生縁もゆかりもありますまいが、この資料ですな、この過去の資料の分析にも矛盾せず、かつ、可能性においても確固とした、つまり論理的に妥当性のあるこれ、理論、これを発見したのです。まるまる三年かかってですな、はははは、どう?へへへへ…その結果が、こいつです。束です。『色調のシックな』ですな。どうです?緒戦だとはいえ、一体、これは何です?え?一体何を意味します?へへへへ、へへへ…勿論、信じてなどくれなくっていいですよ。一切、ね。信じてなど下さらなくって…私は目下しゃべりたいので、ただやたらしゃべっている。へへへ、へへへへ…とは言え、この成功は、私には、まさしく狂気もんなんですよ。それってのも、今後は、ほとんど思い通りに、ほとんどと言いますのは、第一に、中央競馬会がつぶれない限りですな、もっとも中央競馬会がつぶれたって、と言いますのは、この国においてですな、一切のギャンブルが禁止になる、つまり、純にして正なる革命が惹起する、という事態をかり予想してですな、だがそれでも、たとえそうなっても、アメリカは、どうです?フランスは?イギリスに競馬がないですか、え?ダービー卿はイギリス人じゃなかった?…競馬のない世界。そんなものが考えられますか?え?…もっとも、紅旗の国は別格でしょうがね。あそこは、あそここそ…それにしても、どうです。つまり私は、今後死ぬまで、思い通りに、何億、何十億、何百億、へへへ、いくらでも稼ぎ放題って寸法です。それこそ、お気に召すままに、ってな格好ですよ。しかも私のこれには賭博っ気がない。こっから先も賭博っ気がありません。徹頭徹尾、明晰なる論理、純然たる数学、これの行使以外の何ものでもないのです。誰が、いつ、どこで試みようとも、私のやり方でやりさえすりゃ、必ず、この通りになってしまうのです。つまり、言うところの、客観性ですな…普遍妥当性ですな。ところで、目下、私は社長秘書にしか過ぎません。ですが、へへへ、この通り天下を取ったようなもんなんです。どんな企業が、これほどスマートな事業を営めますか、え?どんな企業も、これ程知的にはやれません。しかもこの秘密を私が本にでもしない限りは、私は死ぬまで、私は一生涯…。ところで、ここ二、三日、この金を身に付けてからというもの、私はただの一睡もしていません。眠くなりません。不思議なものです。まるで脳の内部に、いま一つの血液ポンプ、つまり心の臓ですな、心臓が出来てるみたいな調子です。そしてやけに恋がしたい。それはもうまるっきり、犯行後の犯罪者みたいな具合ですね。なにか脳に変調をきたすのでしょうか。…私はこの三日間、京阪神をほっつき歩いていました。眼に触れる女という女を吟味しながらですな。これという女に出会ったが最後、電車の中であろうが、路上でであろうが、私は直ちにそれを我がものとすることが出来たことでしょう。女が顔をそむける?何でもありません。そしたら私は、そのそむけられた女の視界の中へ、この裸の札束をねじ込んでやるのです。…ところが、不思議にこの今という今、ただの一人も私の気をそそらない。妙なもんだ、え?…へへへ…ところで、私は、かつて、一度恋をしたことがあります。その娘は一人の男に凌辱されました。美しい、この上もなく気位の高い姫君でした。私は今もその姫君を愛しているに違いありません。これは死ぬまで変わりますまい。…それにしても、奇なのは、私が密かに恋する姫君がいま一人の男に凌辱される段取りは、他ならぬこの私自身がやっているのです。段取りどころか、腕をとり脚をとり、それこそ最後の最後まで…典子って名の姫君でしたがね。…その直後から、私の錬金術が始まったのです。はははは、この札束は、まあ、その廃墟の産物ですな。はははは、そいじゃ失礼」
安見はやっと口をつぐんだ。彼の燃えるような視線は、焦点を失っているみたいな感じだった。すると、つっと、席から立ち上がり、通路を、二郎の背後へと去って行った。二郎は、すぐに安見が引き返して来るものと思っていた。しかし、二十分経っても、三十分経っても、安見は戻って来なかった。
熱にうるんだ男の両眼。かすかに震える長い美しい手の指。純白の夏背広。これらの安見の印象が、二郎の脳裏に鮮明に焼き付いた。それは列車がU市へ着いても、T市へ着いても、二郎の頭から消え去りはしなかった。(つづく)


(立ち読み おわり)


(他に、短篇、『焼酎幻情』含む)


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土呂夢小説集 Ⅰ


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土呂夢小説集 Ⅱ の 立ち読み

                  手術幻情   (97枚)

                 杏 土呂夢(あん どろむ)

      

日の出前の湖周道路をぶっ飛ばすのは、人影はもとより、車影もほとんどなく、気ままで、爽快である。
このあたりでは、道は湖岸に沿って、自然の中を、ゆるく蛇行して進んで行くのだが、湖の所々に突き出ている丘陵に差し掛かると、雑木林の中を急なS字のカーブの連続を登って峠の頂上に行き着くこととなる。
見透しの全然効かない急坂を右に切り、すぐに左に切って、また右に切ろうとした峠の頂上付近で、路肩に立っている凸面鏡に、対向車の車影が見えた。と思ったその時、道路の左側の茂みの中から、狐か鼬(いたち)かが、地面を這うようにして、男の車の前に飛び込んで来た。男は無意識に、避けようと、咄嗟にハンドルを右に切ったのだが、センターラインを割ってしまい、急カーブを曲がって、いま、姿を現した瞬間の対向車に、急ブレーキを踏み込んでいたものの、スピードを出し過ぎていたためか、男の車はスリップし、右のライトのあたりを、派手にぶつけてしまった。ポーンという、衝突の凄まじい音と共に、ライトのガラスが砕け散った。
大き目の、半透明の、黒色のサングラスをかけた背の高い女が、現われ、男の運転席を覗き込む。「どうしますか?」
男は、女が事故処理の仕方について、訊いているのだろうと思う。
「電話は?」女が訊く。男は、女が、警察か保険会社への、電話連絡のことを言っているのだろうと思う。
男は、ギアをバックに入れ、緩くアクセルを踏んでみる。女の車に喰らい付いた男の車は、感じ悪くスリップをし続けるだけで、離れようとしない。
「連絡は?」女が訊く。
「じゃ、免許証…」と女が言う。
男は、免許証を、女に渡す。名前か何かでもをメモるのだろうと思っていると、女は男の免許証を見もしないで、肩に引っ掛けていた、黒い、細い、長い革紐のついた小っちゃなレザーのバッグの中に、そのまま仕舞い込んでしまった。変わったことをする女(ひと)だな、と男は思った。しかし、男は、ひと言もしゃべろうとしなかった。
何回目かに、男が、思いっきし強くアクセルを踏み込むと、ひと揺れした後、やっと、二台の車は離れた。
男は工具で、女の車のフロント右の車輪のあたりを二、三度、力任せに捏ね上げた。走行は充分可能だろう。車はドイツ車で、ダークグリーンのロードスターだった。
女は、小さく一つうなずくと、「急いでいるので」と言って、急発進し、タイヤを軋(きし)らせ、去って行ってしまった。
峠を下り始めると、男は、ぶつけたあたりのフロント右に、かすかな異常を感じた。そこで、車を止め、女の車にしたと同じように、鉄棒をかまして、二、三度乱暴に捏ね上げた。そして、この時初めて、男の頭に、想いが一つよぎった。美しい女だ…揺るぎない…正真正銘の…なんという、…。男は、この時まで、狐か鼬(いたち)かの飛び出しと、回避、衝突のショックで脳味噌が凍てつき、きっと、失語症みたいになっていたに違いない。

「坊ちゃん、あなた免許証がどのようなものか、分っているんでしょうね」〈センセイ〉が、電話で、言っている。「信じられないようなヘマですよ。…ヘタすると、あなた、一巻の終わりにすらなりかねない…相手の…つまり、手合い次第では…。どこか、ヤバイところへでも持って行かれてごらんなさい。…どうするつもりなんですかねェ、今後?…」
男も、内心不安がないでもない。時間が経つにしたがって、むしろその念は増大して来ているみたいだ。しかし、男は言っている。「あの女(ひと)は、そんな女(ひと)じゃない。…あなたは悪く解釈し過ぎている…」
「解釈も何もありませんよ…わたしは一般的のことを、客観的に、ただ、亡き父君の顧問弁護士としてですな、言っているまでですから…当然じゃありませんか…なら、訊きますが、相手の名前は?相手の電話番号は?…尋ねていますか?…あなたも相手の免許証を預かりましたか?…それごらんなさい…全然、何もしていない…ただ一方的に、されるがまま、なされるがまま、つまり、奪われるがまま、といった体(てい)…どうです、図星でしょう…腑抜け同然じゃありませんか、極めて失礼な言い方を敢てさしていただければですよ…」
「ま、結果的には、そのようにみられても、仕方ない節(ふし)が…。しかし、本当は、それとは、ちょっと違う。まあ、全然違う。しかし、他人(ひと)に言っても仕方ない。理解されないだろう。うまく、口にはできないような、デリケイトな問題がね。つまり、手っ取り早く言えば、感情、みたいなもの。物事には、法律以上があり、法律的があり、法律以下がある。あの女(ひと)のことは、超法律、超日常、超打算、つまり、特別、不合理、不公平、即ち、一切、全て、なのだ。おれは、信頼している。また、目下、そうせざるを得ない。そうしないと、すべてが倒壊する可能性が出てくる。とはいえ、何か法律的の問題が起これば、仕方ない、あなたにお願いせざるを得ないでしょう。だが、万が一にも、そのようなことは起こらないし、…あの方はそんな方じゃないからだ。それに、もし、そのようなことが起これば、あなたの勘の方が、わたしの勘より、優(まさ)っていたというようなことになりかねない…そんなことはあり得ないし、また、あってはならない…それに、金など…慰謝料か…もし求められるのなら、即座に、いくらでも払ってしまったらいい。躊躇わず、払ってください。おれは、我慢するよ。任せるから、よろしく…」
「そんな、気違いじみた、無茶苦茶な、ほんとに、もし父君(ちちぎみ)がいらしたら、もし、父君がご存命なら、あなたなんぞ、鐚一文(びたいちもん)…お金お金といっても、父君のご遺産なんですからね、父君の残された。…わたしは、あなたの父君に管理を頼まれ、そのお約束を誓った者として、法律家としてですな…ですから、坊ちゃん、健全なる、…ご遺産だけで、その配当と金利だけで、何もしなくても、ただ健全に、配当金とお利息だけで、人並みのリッチな生活が…。もし、元金さえ目減りさせなければ、ですよ、ずっとずっと、保障できるのですから。…ほんの少しでも、元金に手を付けてはいけません。そんなことをすれば、立ちどころに、生活に困り、仕事につかなければならないような羽目に、働かなければ生きていけないような状態に…」
「仕事か、おれは仕事なんぞ望んでおらん。仕事は人間よりもコンピューター、つまり、ロボットか、ロボットに、より、向いている、ふさわしい…」
「そんな、もう…わたしはそんなことを言ってるのじゃありません…わたしは、坊ちゃん…」

「あなた?あなたですか?」電話に女の声がしている。T道路のB大橋近くの喫茶店にいるから来ないかと女は言っている。「五分で来られるでしょうね?」
「それは、無理でしょう…」
「なら、もう居ないかもしれないわよ…」
「いくらなんでも、それは無理でしょう」
「ぶっ飛ばしなさい、ぶっ飛ばしなさい、もし、あたしに逢いたいのなら」
『これは、困ったことだ』と男は思う。しかし、男は、諦めようなどとは毛頭思っていないみたいだ。
アクセルを踏み込む度に、タイヤがスリップして軋む。男は、アクセルペダルと、そのペダルを支えている細くて丸い鉄棒との溶接部分でもがヘシ折れはしないかと危ぶまれてくる程度にまで、アクセルを、極度に、乱暴に、踏み込む。そして、そのあげくは、急ブレーキー、そしてまた、急加速…男は運転席にあって、まるで、馬の曲乗りをでもしているみたいな体(てい)だ。
喫茶店に着くと、ボーイに名前を訊かれる。「そう」と男が言うと、三階の専用の個室に案内された。男の期待は裏切られ、女は独りではなく、いま一人の男と一緒にいた。「それでは…」とか「それでは、また、お電話を…」とか、いま一人の男が言っている。部屋には、黒い革張りの長椅子や肘掛け椅子とテーブルや数多くの観葉植物が置かれている。鉢に立っている名札には、大鉢で、パキラ、アラレヤ、ドラセナ・コンシンナ、それに、中鉢では、クロトン、カラテア、ストロマンテとなっている。壁には数枚額が掛かっている。ヒンドゥー教の石窟寺院やそこにある神像の写真みたいだ。『トリムールティー像 エレファンタ石窟寺院奧殿本尊』『パールバティー女神 エレファンタ石窟寺院奧殿前室浮彫』『宝輪 コナラクのスールヤ祠堂前殿基部の浮彫』『カンダリヤー・マハーデーヴァ寺院』…
「免許証を手掛かりに…」と女は言っている。そしてしばらくの間、小さく柔らかく声を立てて笑っている。なぜそう女が、にこにこ、にこやいでいるのか、男には理解できない。しかし、上機嫌の女を、輝くばかりの美女を、ほかに誰も居ない部屋の中で見つめることができるということは、激しい苦しみであると同時に、この上もない心地よさでもあった。
「…社の者に、あなたのことを、ちょっと、調べさせました」女は、また、小さく笑った。「変わっていますのねえ…珍しい方ですわねえ…」女が部下の者に調査させた、男に関するメモの一節は、大略、以下のごとくだったらしい。
「独身…無職…《一体、男は、時間をどう過ごしているのか。退屈じゃないのか。まるで仕事無しで…どんな金持ちでも、四六時中、働く。きっと働かないことに極度の不安を感じるからなのだろう。働かないことに不安を感じない者など一人もいない。働かない者は尋常ではなく、異常であり…そうではないのか…》…資産**億、主として有価証券、それに山林《すべて土地成金の一人息子として相続したもの》…教育は一応一流《一応、というのは、実のところは、分らない。大学をただ卒業したと言っても、ある種の面においては、特に、品性の点においては、極めて劣等、かつ異常なものが皆無ではない》…目下のところ、艶聞、醜聞、一切なし。かつてのことは不明。《これは調査機関の探偵たちのいうことだから百パーセントは信用できない。ヒドイ場合には、直接、当の本人からコメントをもらってデタラメを作文する探偵がいるくらいだからだ》」女の部下が、女にした報告は、大略、以上の様なものだったらしい。
ここで女の顔から微笑みが消え、女は言った。「免許証もっと大切にしなければ…わたしのクルマのこと、もういいから。…忙しいので、それでは、これで、ね」
女は、免許証を男に返した。白くきらめく長い女の指が…爪のマニキュアの銀色が…

エンドレスに流れ続けるテープからは、『悲惨な戦争』が聞こえている。女性の声が、「No,my love. No.」と歌っている。CDを切ると、自動的にラジオに変わり、株式市況で「イタガラ、****円、**円安…」と言った具合で、「総じて売り一色、小甘い程度ではない」らしい。いま、岸辺はハーバーらしく、遠目にはクルーザー級のヨットやモーターボートが湾内をびっしり埋め尽くしているのが眺められ、こちらへと登ってくる陸(おか)の上にも、台車の上に乗せられた流線型の船体が、次から次から、現れてきては、後へと流れ去る。リゾート地帯特有の傾向で、往き交うクルマは外車の比率が異常に高い。

「あなた大変な女にぶっかっていますよ」〈センセイ〉が電話で言っている。「もうこれは非常なことです」一体、何のことだか男には、さっぱり、分らない。「あの女のこと調べてみましたが、かなり手強(てごわ)い、と言うか、もうほとんど完全に強力な…パワフルな…トップレディって言うのか、なんて言うのか、医者のくせに医者にならず、つまり大学は医者の大学、医学部か、医学部を、それも、外科、外科…信じられない…出ておきながら、医者にならず、…不自由ならしい、医者は自由業だけれど、不自由ならしい。つまり、時間を縛られ、また、病人相手にあまりにも責任が重過ぎる、と女は考えているらしい。つまり、裏を返せば、かなりズボラな女と言える…もちろん、よく言えば、自由な女、だ。…社会性のない、自己中心的な…そこで何か、経営、つまり商売、輸入会社か、絵画関係の、美術…しかも、その一方で、趣味で、どこかの大学で講師をやり、インド美術…なかでも、特に、ヒンズー教寺院の石窟レリーフか…何かに特に興味があるらしい。要するに、それを大学では講じているらしい。しかも一番いけないのが、大変な、異常なまでの、美女ときている。Face & Body において、極度に…もう一目見ただけで、ただでは捨てて置けない衝動に、どうかしなければいけないという運命みたいなものの暗示に…何がどうなろうとも、もう知らない、つまり命懸けででも…気狂い…この女のために人生を狂わされた男は大学生時代から、何百人と束になって、数知れないらしい…勿論、狂う方が勝手に独りで狂っているだけなのだから、一切の責任は男達にあり、極めて迷惑なのは女の方に決まっているのだろうけれど…彼女は人目の多いところには近寄らないらしい。それは恐ろしい電気メスのような我を忘れた男達の視線に次から次と連続的に身をさいなまれているようなものだからであるらしい。アイクチのような視線が、おびただしく、刹那刹那、すれ違いざま、路上で犯しにくるのだ。美女の憂鬱どころの騒ぎじゃない。美女の悲劇だ。からだが目立ち、自然と挑発的な上に、顔がまた非常に悩ましいまでに艶(あで)やかな…ということは、心もまた、あるいは、大変な、好色女で…」
「もう結構、センセイ、わかりました。しかし、調査と言っても、それらは、ブリキみたいに平板な、誤った伝聞記事…調査会社社員の、一定時間内における一定の、つまりノルマのために、あえて作られた単調無能なブリキ作文にしかすぎない。ホラだ、ズボラなダボラだ。それにひきかえ、おれはすでに彼女と衝突しており、…事故か…衝突を通じて、彼女がどんな脳味噌コンピューターをしているのか、つまり血液コンピューターだな…感じ取っているはずだし…大切なのは、目の色、だ…彼女の目の色の意味…しかしそんなことは、いくら考えたとて分るものではない…われわれは何も理解できない。訳もなく感じ、ただ漂うだけだ…それに、もうすべては落着した。事故は無かったのだ。女神は去られたのだ。一切は、束の間の、幻影か、まぼろしか…ただ、心には、おびただしい、飢渇だけが…心臓の締め付けられるような痛みだけが…悲しみの念、だけが…どうにもならない、莫大な悲嘆が…」
「坊ちゃん、そのようなことは、そのような生々しいことは、心の奥に押し込めて、蓋をして…押さえつけられまして、抑圧に抑圧を重ね…決して口外など…それにしても、もしそれが事実なら…儲かると言うか、損せずに済むと言うか…慰謝料、修理費の点、よかった、よかった…何もかも、失われること無く、無傷でよかった。無事円満解決。これほどよいことが…」

暗闇に、ヘッドライトの光芒の中に、白く、雪が吹きつける。CDは『沈黙の音』『花はどこへ行ったの』『風に吹かれて』と続き『トルコ風ブルーロンド』『テイク・ファイブ』タンゴで『夜のタンゴ』『オレ・グァパ』ときて、ガーシュインで『ラプソディ・イン・ブルー』『パリのアメリカ人』…時は、エンドレスにCDから流れる音楽によって刻まれているみたいだ。時刻は、すでに、完全に真夜中を過ぎ、おそらく、丑の刻、丑三つ時頃、だろう。
湖周道路には、この辺りまで来れば、すでに人家は無く、一切の建物も無く、車影も無く、いま、闇と雪と孤独だけが…雪はフロントグラスに、暗闇の奥から、次から次から、盲滅法に、永遠の狂気みたいに、ぶち当たって来る。左手は、闇の奥に、湖面だろう。右手は、同じく、闇の奥で、葦の生い茂る、湿地、沼、荒れ地…ときに河口、ときに水門…湖周道路は、いま、丑の刻、人気(ひとけ)も無く、光も無く、無際限の闇と、無際限の孤独と…スピーカーはガンガンと耳をつんざくばかりの音を繰り返し…フロントグラスには、群れなし狂う雪片が…車は闇に突き刺さり…
路面は、いま、ヘッドライトに照らされて、艶やかに黒い。それは、いくらぶっ飛ばしても終わりが来ない。夜の、闇の中の、黒く濡れた、アスファルトの、直線の、起伏もない…車の左右では、事物が、猛烈なスピードで、きっと、飛び去っていっているのだろう。それは、左手は、湖面であり、右手は、荒地、葦原、沼地…だろう。
車に、遠心力が…カーブだ…左側にふくれようとする…厭な気分だ。ライトに照らし出された前景は、物凄いスピードで左に流れて行く。一体何が見えているのか定かでない。きっと、藪、雑木林、下生えの茂み、といった類(たぐい)なのだろう。道は昇っている。カーブは連続的なS字だ。湖面に、またも、岬でもが突出しているのだろうか。きっと、地形は、そんな具合なのだろう。やがて路は下りに、平地の直線となり、またも、沼、荒地、葦原(よしはら、あしはら?悪し原?)と続くのだろうか、どうなのか…
仕方なく、脇道に入り、男は車を止める。ドアを開くと、冷気が薄着の身にしみる。雪は、後から後から舞い落ちてくる。雪片は、ここでは大きく見え、牡丹雪だろう、雪はすぐに溶け、髪の毛を濡らす。巨大な、無限と連結した闇の中、ただ、ヘッドライトの光の筒の中だけに、へら雪が後から後から舞い落ちる。
男は、やがて、いま立っている前方は湖面だろう、という朧な予見みたいなものを心にもって、無謀に、前へ、暗闇の中へと進んで行く。すると、背筋がぞっとする。どうやら、一つならず、二つならず、古びた墓石が…よく見ると、なんと、墓石だらけである。ここはもしかすれば、すでに捨てられてしまった、昔の墓場みたいなところなのか…よりによって、また。…信じられないことだ。男は、今度は、反対側を…まさか、と願いつつ、恐る恐る闇の中を覗いてみる。しかし、やはりこちらも…しかも、こちら側は、湖面側よりも、もっとおびただしい数の、ほとんど闇の奥へと、いま、無限につながっているようにさえ見える古い古い墓石が…完全な、古い墓場のど真ん中に、男は…いま、丑の刻、舞い散る雪の中で…
「墓場へ、墓場の中へ…墓場で、だ…よくよく、だ」男は思う。「真夜中過ぎに、だ。暗闇の、見捨てられた、古い古い墓石の群れの中で、だ。雪は、後から後から舞い落ちてきて、だ。…おれは一体どういう運をしているのだろう。偶然迷い込んだとはいえ、どうもこの種のものが付き纏う」男の頭に、この時、車で!、だ、すぐにも脱出!という思いがよぎる。しかし、まさにその刹那、遠くに、一条の光が…光の揺れが…その光は、見る見る、こちらに近づいて来て…車のようだ。車のヘッドライトみたいだ。これはいけない。ただ事ではあるまい。時刻が時刻だけに、何か犯罪じみた。どうにもならない不自由に巻き込まれ…犯罪は、うるさいぞ。何しろ強制的だからな。自由の真反対だ。時間を、完全に、奪われてしまう。…男は、一瞬、墓場の墓石の群れの中へ逃げ込み、隠れようかと思う。しかし、車を、そこに残したままでは、かえって不自然だ。遅すぎる。すでに捕らえられている。厭な思いで、男は両のこめかみの辺りに、ヒヤーと痺れみたいなものが走るのを感じる。男は、いまでは、近づく車のヘッドライトを真っ正面から身に浴び、まばゆい光にさらされ、棒立ちしている。諦めて、すっかり観念したのだろうか、どうなのか…
ヘッドライトが消され、車は止まり、エンジンが切られる。男の車のフォグライトの淡い光の中に、舞い散る濃い雪の群れの奥に、人影が、コツコツとリズミカルな足音が、…両の肩に黒い毛皮のコートを引っ掛けた、凛々(りり)しくて高貴な、素敵なあの女の姿が…
「どうしたんです?」
「どうもしないわよ」女はほほ笑んでいる。
「人気(ひとけ)もなくて、寂しくて、まるで、荒涼とした、地の果てみたいな、ここで…」
「嫌いなの?」
「いや、嫌いでも好きでもないけれど、ちょっと怖かった…濡れるといけないから…雪…車に…」
「あたしは時々ぶっ飛ばすわよ。真夜中、頭が冴えた時…」
湖面が見てみたい、と言って、女は先になって湖側の墓場の方へ、歩み始めようとしていた。しかし、すぐに立ち止まると、男の手を、ぎゅっと、握りしめてしまった。
「親しくなりたいの」女は言った。
男には、信じられないことだった。男は一瞬とまどった。しかも躊躇(ためら)いは許されないようにも思われた。男の脳味噌コンピューターは一瞬のうちに気違いみたいにフル回転した。多くの、数知れない演算が刹那のうちに行われた。女が、おおよそ、どんな罠に、二人して掛かろうとしているのか、見当がつかないでもなかったが、突然、選択を迫られると、幾分、恐ろしいことのように思えた。新しい口づけをする度に、どうしても、いままでの自分では居られなくなるだろうし、否応無く未知の世界に歩み入らねばならない不安や苦悩や、時には、恐怖すらが待ち受けているだろうし…新しい口づけには、恐怖が…それでも男は女に口づけせざるを得ないだろう…それは、とろけるような、不自然な味の全然しない、違和感の無い完全に許し切った、柔らかい、ふっくらとしてふくよかな、夢の中でのように軽やかな、べっとりとして甘美な、一度その味を覚えてしまったら二度と後戻りすることができないような、天国で居るみたいな…その口づけは、まさに成熟し切ろうとしている女の自然から湧き出る、一切のためらいの無い…それはきっと、いま丑三つ時、闇へととろけ去る数知れない墓石の群れの中…しかし一方冷徹なものでもあった。女の毛皮のコートのお陰で、男は女を、何か抱きしめにくく、抱きしめ切れず、抱きしめても抱きしめても、その分、毛皮が反発し、長くて腰の強い毛皮の毛がつっぱっているみたいで、まるで女の体には、いつまでたっても到達できないみたいな…しかし、女の顔は、火照っていて熱く、吐く息も熱く、それは闇の奥から、いま舞い落ちてくる白い雪を溶かし、男の顔に心地よい熱を…女の脚から力が抜けていくのか、その分、いま男の腕に重みが増して来たみたいで…
雪は容赦なく舞い狂い、女の頬を打ち、髪の毛を濡らす。夜の闇は深く、時は停止してしまったみたいに、まるで時は…そして、時は…
しかし、やはりそれでも時は過ぎ、西の空の雲は切れ、星々は輝き…プレアデス星団が、ヒアデス星団が…牡牛、オリオン…ヴェテルギウス、シリウス、プロキオン…懐かしい冬の空の星々が…しかし、瞬く間に、またも、いったん蹴散らされた雲は逆巻き群がり連なり、厚く厚くとろけ合い、闇が、分厚い闇が、またしても雪片が… (続く)



(立ち読み おわり)


(他に、5篇、含む) 


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:SINCE 2012






2011年12月14日 (水)

渚の夏

渚の夏(39枚)
                          
杏 土呂夢(あん どろむ)

   1.

二郎は、これというきまった職につきたがらなかった。ほとんど年中どこかを放浪しており、行く先々で、適当に仕事を見出した。
 去年は直江津で過ごし、一月から東京へ出、春になると、宇野から瀬戸内海を渡って、四国の高松へ来たのだった。
 高松では、貸しヨット屋の手伝いをして、日を送った。だが、七月のはじめの頃、二郎は、また、どこかへ移り住みたくなった。
 貸しヨット屋のおじいさんが、木製の古ボートを一隻くれたので、二郎は、それを漕いで、途中、女木島と男木島に立ち寄り、やがてこの島へやって来た。
 島では、日中、船大工の下手間をやり、夜は岬の浜辺の岩かげに張ったテントで寝た。明け方、すぐそばの海を、漁船がしきりに通り過ぎた。その焼玉エンジンの音は、岬の岩肌にはね返り、ボンゴかコンガの響きのようにこだました。
 岬からは、あたりの海がよく眺められた。青い海が広がり、向かい側の、陸地には、白くかすんだ五剣山と屋島が見え、もっと右手の海の中には、女木島と男木島が眺められた。北の水平線には、島々の間に、うっすらと、中国山脈が浮かび、そのぐっと上方には、紺碧の空を背景に、白くまばゆい入道雲の峰々がそびえていた。
 島へ来た最初の日、二郎は洋子をひと目見て、彼女が好きになってしまった。洋子はよろず屋の売り子で、住み込みで働きに来ているのだった。年は十六だったが、その艶やかなまなざしは、はたち位に思われた。すんなりとした、からだつきで、胸とおしりが、ふっくらとして目立っていた。いつも、木綿のワンピースを着ていた。それは、どれもひどく着古したもので、洗いさらして地が薄くなり、下着がすけて見えはしないかと気遣われるくらいだった。
 また、それは、丈が、ずいぶん短かった。あるとき二郎が、「ひざっこが見えてるよ」と冗談を言うと、「まあ、いやだわ」と言って、恥ずかしそうに、ほほ笑んだ。
 髪の毛は、黒くしっとりとした感じで、ひたいの真ん中から両側にたれ、うなじのところで束ねていた。口はやや大き目だが、唇が薄くて格好がよく、ほほ笑むとその間から白い歯並がちらっと見え、二郎には、この口元が、とても愛らしく思われた。夜、テントの敷き布にひとり横たわるとき、ふいと洋子のほほ笑みが浮かび、二郎は一瞬、悩ましい想いに襲われた。
 二郎は、毎日、よろず屋へたばこを買いに行くので、洋子に会えない日はなかった。また、洋子の方でも、二郎が毎日欠かさずにやって来ることに気づいていた。だから、一度高松からの連絡船が欠航して、たばこが切れそうになった折にも、二郎の分だけは粉ミルクの空き缶にしまって取っておいた。
 洋子は二郎の姿が店先に現れると、思わず胸騒ぎがするのだった。二郎は肩幅が広く、胸が分厚かった。やや白っぽくはげた青いデニムのズボンをはき、足にはゴムぞうりをはいていた。いつも上半身は裸なので、腰から上は、肩も顔も茶褐色に日焼けしていた。髪は長くてばさばさだが、ひげはきれいに剃っていた。鼻と口は、共に大きく頑丈で、笑うと日焼けした黒い顔に白い歯がにゅっ、と浮かび、洋子には二郎が、とても人なつっこく思われた。眼は時折鋭く輝くことがあるが、常にはやさしそうに思われた。洋子は島で会う人たちの中で、二郎が一番かしこそうな人だと思っていた。
 夕暮れ時、洋子はよく、よろず屋のだだっ広い店の大黒柱にもたれ、夕凪の瀬戸内海を眺めることがあった。そんな折、ふと、二郎が岬の岩群(いわむら)の間をひとりテントへ帰っていく姿が小さく見えた。裸の上半身が夕陽に赤く映え、それがしばらく、ちらっ、ちらっ、と見え隠れし、やがて、ふいっ、と見えなくなってしまう。その刹那、洋子は何かが失われたみたいに、やるせない気持ちに襲われた。また、明け方、二郎の夢をみることがよくあった。夢の中の二郎は、いつもにこにこ笑っていて、日焼けした胸のみずおちのあたりには、汗のつぶつぶが光っていた。と、やがて洋子にはその胸が異様に大きくなり、自分におおいかぶさって来るように思われ、こわくてはっと目覚めるのだった。しかし目が覚めてみると、独りぽっちなのに気づき、底知れぬ淋しさに襲われた。ネグリジェのままで、すぐに岬のテントまで駆けて行き、二郎にしっかりと抱きしめてもらいたいとさえ思うのだった。
しかし、そんな折をのぞいて普通の時には、洋子は二郎のことを、あまり深く考えることはできなかった。二郎は毎日会いには来るが、洋子をはっきりと好きだと言ったことはもとより、彼自身のことについてさえ、ひと言もしゃべってくれたことはなかった。洋子はこのことが不安だった。洋子は一度、船大工のおじいさんに、二郎のことについて訊いてみたことがあったが、二郎は働き者であるということと、ボートを漕いで、ふいとこの島にやって来たということ意外、くわしいことは何も知ってはいなかった。
 
   2.

 ある夜、二郎は洋子を釣りに誘った。陽はすでにとっぷりと暮れ、月が出ていた。海には波がなく、渚の岩と岩との間の水面には、夜光虫が青白く光っていた。
 「夜光虫だわ」洋子が言う。
 「うん」二郎が言う。
 二郎は、恐る恐る、洋子の手を取ってみた。洋子は二郎に手をまかせた。
 二人は、二郎がテントを張っている島の岬の砂浜まで歩き、そこから、ボートを漕ぎ出した。そして、速い流れの海を一つ漕ぎ渡った。洋子はその間、ボートが潮に流されはしないかと、非常に恐かったが、口に出しては言わなかった。
 彼らは、屋島の先端の、長崎ノ鼻の近くの海に錨を下ろした。
 あたりは、しんと静かで、すぐ脇に屋島の影が黒々と迫っていた。入り江の奥には、源平合戦の古戦場が眠っていた。
 「なんだか、あたし怖いよう」洋子が言う。
 「全然、なにも・・」二郎が言う。「心配はいらないよ」
 「そうね」と洋子が言う。「ただちょっと、そう思っただけなんだわ」
 二郎は、ズックの袋から釣糸を巻いてある木枠を取り出す。カンテラの明かりで鉤を調べてから、洋子に渡す。洋子は艫の席に腰掛け、二郎は、底板に腰を下ろして、舳先の波除けデッキに背をもたせ掛ける。サヨリが二匹水面に現れ、すいすいと、輪を描いて泳いでいるのが、カンテラの明かりに眺められる。
 「あの二匹のサヨリ、恋びとたちかしら」
 「恋魚たちだろう。じゃれ合っている」
 洋子は、内心おかしかったけれど、声には出さなかった。
 二人は釣糸を海に下ろした。あたりは、しんとして静かだった。
 「島の生活は、どう。気に入った?」
 「うん、とても」
 「長くいるつもり?」
 「ううん、どうだか」
  二郎は、波除けデッキの下から、たばこを取り出し火をつけた。
 「どうして、こんないなかへわざわざ来たの」
 「ううん、それは、わからない」と二郎。「ただ、一度でも、瀬戸内海の島で生活できたらいいだろうなあ、とはずっと思っていた。海、好き?」
 「ええ」
 「そりゃいい」
 二郎は、この時、魚がやって来た手ごたえを、ごつん、ごつん、と左手に感じた。彼はじっとその方へ気を向け、糸を右手に持ち変えた。だが、それきり二度と反応はなかった。彼は再び洋子の方へ顔を上げた。彼女は舟べりに身をすり寄せ、右手で糸をゆっくりと上下に操っていた。
 「来てるの?」二郎は小声にささやいた。
 洋子は、黙ってうなずき、二郎を見てほほ笑むと、再び水面に目を落とした。
 ぐっと、ボートが傾いた。洋子が、さかんに釣糸をたぐっていた。
 「やったんだな」
 水面が乱れ、ぱちゃぱちゃと魚の跳ねるのが見えた。洋子はぐいと釣糸で魚を引くと、そのまま、びゅんと舟べりを越さし、ボートの底板の上にほうり下ろした。二郎は上体を折り曲げ、手をのばし、底板から魚をつかみ上げた。
 「ギザミだ」
 「ギザミって何?」
 「ベロコのことだ」
 「そう、ベロコだわ」洋子が言っている。「鉤をとってちょうだい」
 二郎は魚の口から鉤をはずした。
 この時から、潮が向いてきたのか、魚はどんどん食い付いた。大方はベロコで、たまにメバルやフグがかかった。フグはよく鉤を食いちぎった。
 「またハリをとられたわ」洋子が言っている。これで彼女は三度目だった。
 「どうやら潮時は過ぎたみたいだね」
 「ええ、潮時は過ぎたみたいだわ」
 洋子は、鉤を付けてくれとは言わなかった。
 「もうよすの」と二郎が訊いた。
 「ええ、今夜はもうよしましょう」
 沖を汽船が通っていた。重い機関の音がかすかに聞こえ、それが屋島にはね返って、こだました。船全体に明りがともり、その明りが遠くの黒い海面を、ぼんやりとゆっくり動いて行くのが眺められた。
 「別府航路だね」
 「十二時の別府航路だわ」と洋子が言った。
 二郎は釣糸を木枠に巻き上げ、彼女の枠も受け取ると、二つ重ねて、ズックの袋に納めた。ボートの底板の下で、釣り上げた魚たちが、ぱちゃぱちゃと水音を立てているのが聞こえた。やがて、汽船の残した大きいうねりがやって来て、ボートをやんわりと上下に揺さぶった。水に映ったカンテラの明りが、めらめらっと延び縮みした。
 夜気は涼しくなっていた。そよそよと風が吹いていたので、汗はちっとも出なかった。だが、二郎は、からだの中が、かっかっと火照っているのを感じた。洋子の方を見てみると、彼女は舟べりに身を寄せて、手の先で水をもてあそんでいた。
 「あつくない?」と二郎。
 「いいえ、あつくないわ」と洋子。
 二郎は底板に腰を下ろしたまま、脚をのばすと、ズボンを抜き取り、水着一枚になった。
 「泳ぐの」
 「うん」
 「あたしも、暑かないけれど、泳ぎたいとは思うわ」
 「じゃいしょに泳ごうか」
 「泳ぎたいわ」と洋子が言う。
 二郎は波除けデッキの上に立ち上がった。両足をそろえ、ひときり反動をつけると、ぐっと宙に身をけった。体は、すっと空中を飛んでいると思う間もなく、ずぶんと水が耳の両側でくだけ、全身がひんやりと心地よい海水の中をつき進んだ。二郎は目を開けてみた。暗闇の海中を、夜光虫の明りが無数の彗星みたいに輝き、あとへあとへと飛び散っていった。
 二郎がぽっかりと水面に顔を出してみると、洋子がボートの舳先に立って錨づなをあげているのが見えた。
 「つめたくない?」
 「ああ、とってもすばらしいよ」
 「あたしボートを岸へつけてから、それから泳ぐわ」
 二郎は、水の中を、ゆらりゆらりと泳いでみた。全身がやんわりと水になでられ、気持よかった。海面には波がなく、月の光が、銀色に輝いていた。渚の方からは、洋子のこぐオールの水音が、ぱしゃっ、ぱしゃっ、と聞こえてきた。二郎はゆっくりと、その音の方へ泳ぎだした。
 しばらく行ってみると、洋子が岩の上に立っているのが、月の光にうっすらと見えた。彼女はワンピースを脱いでいるところだった。
 「見てちゃいや」洋子が叫んでいる。「あっちを向いててちょうだい」
 二郎は水をひとかきした。からだが、ぐるっと回って、沖の島々の灯が見えた。
やがて彼の背後から、ざぶんと水音が聞こえてきた。二郎は音の方へ向き直った。水面には波紋だけが残り、それが月の光にきらめきながら、ゆらりゆらりと広まった。と、ぽっかり前方の海面に洋子の頭の影が浮かび上がるのが見えた。
 「すてき」遠くで彼女が言うのが聞こえた。
 腕を交互にのばして、彼女が、ゆっくりと、水をひとかきふたかきするのが見えた。が、すぐに脚を、ばたばたやり出し、水しぶきを立ててクロールを始めた。そして二郎が見てる間に、白い彼女のからだは、すぐそこまでやって来た。二郎の真ん前までくると、洋子はぴったりとクロールをやめ、顔を上げた。
 「ああ、とっても気持ちいい」
 彼女はほほ笑み、口からは、はあはあと息をはいていた。黒い水面に浮き沈みする彼女の唇の間からは、歯並が白く月の光りに光って見えた。
 洋子は顔を空に向け、素はだかのからだを左右に揺さぶってみた。からだじゅうが心地よく、乳首が引き締まるように感じられた。
 二郎は、ひと息すい込むと、すっと水中に身を沈めた。そしてそこで、からだを前方に倒すと、脚で水をひと蹴りした。すると二郎のからだは洋子のからだにぶつかり、彼は胸のところに、ざらっと洋子のからだの毛が触れたように感じられた。
 「ああっ、だめっ」洋子のはしゃいだ声が聞こえた。「あんな風にしちゃいけないわ」
 二郎は洋子から離れると、岸を指して泳いで行った。岩の上へはい上がり、胸を空に向けて寝ころぶと、夜空の星々が眺められた。
 「タオルあって?」洋子が岩の下で叫んでいる。
 「ボートだよ」二郎が言っている。「舳先の波よけデッキの下だ」
 渚のあたりで、ぱちゃぱちゃと彼女の歩く音がした。

   3.
 
 空は青く晴れ、昼下がりの太陽がきびしく照っていた。青い海は、ところどころで、ちかっちかっとハレーションし、入道雲がいまを盛りに、もくもくと湧きそびえていた。
 大工小屋の砂浜には、漁船が一隻あげられていた。二郎は船底の砂浜に仰向けに寝て、漁船の底板と底板の間にできた隙間に、木綿の糸くずを打ち込み、その上を漆喰でふさいでいった。二郎の打つ槌の音があたりに響き、その合間には、絶えず渚で繰り返す単調な波のリズムが聞こえていた。小屋からは、時折、船大工のおじいさんの削るかんなの音が、ひゅっ、ひゅっ、と聞こえ、裏山の雑木林からは、ホンゼミの鳴き声が、ジャンジャンと風に乗って流れてきていた。
 だが二郎の仕事が一段落ついた頃には、すでに太陽の輝きはおとろえ、海には夕凪が訪れていた。入道雲の峰々は崩れ落ち、波がしらは、ゆらゆらと丸味を帯び、空の色も海の色も、あらゆる色彩が輝きを捨て、やわらかいパステル調の安らぎをたたえていた。
 二郎は仕事を打ち切り、洗濯をし、それから、夕食の用意をした。
いっしょに夕食を食べながら、老人は話をして聞かせることが好きだった。老人はいつもほほ笑みを浮かべ、二郎をじっと見据えて話した。老人の話はすべて日清と日露の戦争の思い出話であり、どんな場面を話す時でも、彼は話の調子を変えることがなかった。
 二人の食事が終わっても、まだ話は続いた。小屋の前の涼み台に腰掛け、たばこをふかし、暮れ行く海や島々を眺めながら、老人は遠い過去の映像を思い浮かべながらしゃべった。それは、かって、老人がそれと共に生きた、中国大陸の自然についてであり、街についてであり、襲い来る飢えと寒さ、殺される寸前の危機、そして、殺し、犯し、犯された、多くの記憶についてであった。
 「今も膿が絶えないて」
 老人は淋病の話の最後に、そう言った。
 老人は涼み台から腰を上げると、柿色の海員ズボンをはいた腰のあたりを、こぶしで、ぽんぽんと叩きながら、小屋の中へと寝に行った。
 洋子が渚を、ぶらりぶらりと歩いてくるのが眺められた。彼女はいつものワンピースを着ていた。波打ち際を、一歩一歩あゆむ毎に、洋子の腰はきゅっきゅっとくねった。
 ベロコ釣りに行って以来、二郎と洋子はよく会った。松林を抜けて、頂上が風化した花崗岩の肌でおおわれた裏山へ登ったり、岬の近くの浅瀬で、カナツキでボートから魚をついてみたりした。
 二人は、会うと、キスばかりしていた。だが洋子は、二郎に身を任せることだけは拒み続けた。洋子は二郎について、もっともっと知りたかったし、何よりもいざとなると、彼女はそれが死ぬほどこわく思われた。
 「今日も晴れでよかったわ」洋子が言っている。彼女は、涼み台に、二郎の脇に腰掛けた。「もう、お仕事は、終わったの?」
 「ああ、すっかりすっかり終わったよ」
 「いま、あのお船をやってるの?」
 「そうだよ」
 「お仕事は、おもしろくて?」
 「ああ、ちっとも退屈しないね」
 彼は彼女の腰に腕をまわすと、彼女のうなじにキスした。それから、胸に頭をこすりつけ、今度は唇にキスをした。二郎には、洋子のからだに、じんわりと汗がにじんでくるのがわかった。もう一度うなじにキスすると、髪は太陽と干草みたいな匂いがした。
 「また、洗濯したのね」
 「そうだよ」
 「毎日洗濯するのね」
 「そうだよ」
 「あたし、とっても感心してるのよ」
  二郎は、顔を洋子の身から離した。沖の方へ目をやると、空は紅い夕焼けから、桃色へ、うす紫へと移ろって、いま、屋島の頂の水平なラインの丁度真ん中あたりには、電灯の明りが一つ光っているのが見え始めた。
 「さあ、行こうか」
 「今夜は、どこがいいかしら」
 「カニを捕りに行きたいな、ぼくは」
 「行きたいわ」と洋子が言った。「カニなら白屏風がいいはずよ」
 「岩がたくさんあるからね」
 「岩の下には、いまも、たくさんカニがいると思うわ。あたしずっと以前に、いちど船大工のおじいさんに、あそこへ連れてってもらったことがあるの。釣りにも、幾度も、幾度も、連れてってもらったけれど」
 「なるほど」
 二郎は涼み台から立ち上がった。白屏風というのは、二郎がテントを張っている岬の浜辺の丁度裏側にあたり、海に面して白い花崗岩の岩肌が、かなりな絶壁となってむき出されているところだった。絶壁の両側の渚には黒い岩が群がり、屏風岩の前にだけ、白い小さな砂地ができていた。
 二郎はオールを肩にかつぐと、砂浜を波打ち際へ下りて行った。かちんかちんと、揺れて触れ合う毎に、クラッチが音をたてる。潮が引きはじめていたので、ボートは砂浜に干上がっていた。
 「ボートハウスみたいだわ」
 「ボートハウスって?」
 「なにかイギリスの小説で読んだことがあるわ。ちょうどこんな具合に、もっと大っきいお船だったけれど、浜に乗り上げた古船を、お家に使っているのだったわ。お話はもうすっかり忘れたけれど、そんなお家に住んでみたく思わない?」
「思わないね」
「まあ、どうして?」
「きみはそれでどうなんだい」
「とても住んでみたく思うわ」
「ぼくはどっちでもいいと思うな」
「いま住みたくないと言ったわよ」
「どっちみち、おんなじことだと思うな」
「ますます話をこんがらかすのね」
「ぼくは洋ちゃんが好きなんだよ」
「まあいや」と洋子は云った。「あなたごまかしているのね。上手だわ。でもあたし、初めてあなたが冗談を言うの聞いたように思うわ」
「そうだったかね」と二郎は云った。
彼はオールをボートの中へ横たえると、ふねの舳先に肩をあてがい、頭を下げてぐいぐい押し始めた。少ししゃべりすぎたように思うわ、と洋子が独りつぶやいた。
二郎は、なおも、舳先をかつぎ上げるようにして、ボートをじりじり押していった。艫が水につかると、舟全体が、すべるように海に浮かんだ。二郎は洋子を抱き上げると、艫の座席に下ろした。それから、舳先に両手を当てがい、沖へ向かって波打ち際を水を蹴立てて突っ走り、ボートが滑り出すと、自分も波よけデッキの上に飛び乗った。
オールをクラッチに通し、片方のオールだけをふたかき三かきして舳先を岬の突っぱなにむけると、左右かいを揃えて漕いでいった。
空には月がなく、黒い入江の海面は、ほんの小さな波もなかった。ボートはゆっくりと息づきながら、その度に、びゅうっ、びゅうっ、と舳先で波を切って進んで行った。オールで水をひっかいた後には、ボートの両側に二つの小さな渦ができた。黒い海面にその渦巻きがくるくる回る様子が、夜光虫の燐光の輝きでわかった。また、オールのしぶきも、夜光虫できらめいた。そのしずくが、黒いなめらかな海面に落ちて砕けると、青白色の火花のようにとび散った。オールの残す小さな渦と、そのしぶきと、末広くピラミッド形に、舟の舳先と艫から広がり起こる引き波の背だけが、真っ黒な水の面に、夜光虫の青白い光の模様をきらめかした。ボートは入り江を真っ直ぐに突っ切って行った。
 岬を回り、白屏風に近づくと、二郎はボートを、静かに岩と岩との間へ進めていった。彼は、片方のオールをクラッチから抜き取り、前向きに座り、カヌーのようにして水をかいて行った。ボートが通ると岩間の水が動き、あたりの岩に当たって、ちゃぷちゃぷと音を立てた。だんだん岩間は狭くなり、ボートがもはや進めなくなった時、二郎はかいを横たえ、カニを突く準備にかかった。洋子は、底板に腰を下ろし、枠から渋糸をもどき、一端に鉛のしずを結わえ、十本の鉤には十匹のエビを通した。二郎は水中眼鏡をかけ、長い竹の柄のついたカナツキを握ると、艫から静かに海へ入った。
 「つめたくない?」洋子が声を殺してささやいた。
 「うん」
 「じゃ、糸、下ろすわね」
 「うん」
 洋子は水中電灯を灯し、それを紐でつるすと、ボートの脇腹から海中にぶらさげた。
 二郎は海底へ下りはじめた。ボートからぶらさがった水中電燈は、円錐形の光芒を、海の底へと投げ掛けた。その光に照らされた海底の砂地の部分は、白くきらきらきらめいた。底に生えているコンブや、やや黄味がかったホオズキが、ふんわりとゆらめいて、その影もまた、砂地に映ってうごめいた。岩の一角に片手で身をとめると、そこにこびりついていた水垢がほぐれ、一瞬あたりの水を濁した。
 洋子は海面に箱眼鏡を浮かべ、その四角いガラス板を透して、海底の二郎の様子をのぞいていた。彼女は片手に握った渋糸を、岩根に沿って、つんつんと、動かして行った。すると、あたりの岩の下から、大きい甲羅をかついだ幾匹ものカニが、一時に、エビに襲い掛かってきた。うす緑の、両端が鋭くとがった甲羅を着、紫色と薄紅と白のまんだらの異様なはさみを持った数匹のカニが互いに上下に入り乱れ、すばやく前後に身を泳がし、餌のエビに激しく襲い掛かっているのだった。二郎はゆっくりとカナツキの柄をにぎりかえると、その腕に力を込め、狙いを定めて、突き下ろした。一瞬、あたりに砂煙が立ち込め、視界が閉ざされた。だが、手のひらには、カナツキの先から竹の柄を伝わって、びんびんとカニのもがく振動が伝わってくるのが感じられた。息が切れ、腹筋が激しく引きつった。二郎は片手にカニをつかみ取ると、海面に向かって、ひらひらとのぼり始めた。すぐにボートの底が黒く大きく見えてきた。
 海面に浮かび上がると、舟べりからカニをボートの中へ投げ込み、カナツキを洋子に渡した。艫からふねの中へはい上がり、転がるように横たわった。あたりは静かで、波の音もなく、ただ、底板の上をはっているカニの足音だけが聞こえていた。
 「あなた少し疲れたのね」
 「ううん」
 「今度はあたしが入るわ」
 「うん」
 舳先で着てるものを取ると、洋子は静かに海に入っていった。二郎は艫の座席に頭を乗せ、顔を空に向け底板の上に横たわり、大きく深い息をついていた。艶やかに黒い夏の夜空を、天の川が斜めに横切り、無数の星々がきらめいていた。
 二郎は、目を閉じてみた。心臓の音がだくだくと聞こえ、一打ち一打ち、それが時を刻んで行っているのがわかった。とその時、ふと二郎の頭に、もうとっくに過ぎ去った、遠い過去の影絵が後から後から浮かんできた。それは冬の直江津で見た夕暮れの暗い海であり、飢をしのび、職を求めてほっつき歩いた、新宿の冬の街々だった。
 ばしゃっと水音がして、洋子が浮かび上がってきた。かぶりを振って、ひたいにたれた髪を払いのけると、片手に握っていたサザエを、ボートの中へ投げ込んだ。彼女はあえぎ、はあはあと息をついていた。
 「とてもたくさん、岩にくっついているのよ」
 「うん」
 「もう入らないつもりなの」
 「いや、入るよ」
 「サザエ、もっともっと捕りたいわ」
 「うん」
 「あなたもいらっしゃいよ」
 「よし、行こ」
 彼は起き上がり、カナツキの柄をつかむと、波よけデッキの上に立ち上がり、足からずぶりと海に入った。
 「一人だと、こわいんだわ」洋子が立ち泳ぎしながら言っている。
 「うん」二郎も立ち泳ぎをしている。
 「あなたは夜の海の底がこわくないの?」
 「いや、ぼくも、こわいんだ」
 二郎は、頭を海面に突っ込むと、手足をかいて、海底へ下りていった。洋子もその後へ続いた。二人は息が続く限り、何回ももぐった。
 やがて潮が満ち始めると、海中には、水垢が舞い上がり、だんだん視界がきかなくなってきた。二人はボートへ上がった。水中電灯を引き上げ、渋糸を枠に巻き取ると、いったん白屏風の浜へ舟をつけることにした。
 彼らは砂浜へ横たわった。砂は細かく乾いており、背中にとても気持ちよかった。頭の上には白屏風の絶壁が夜の光に白く輝き、渚からは打ち寄せる満ち潮の波音が聞こえていた。
 「疲れた?」と洋子。
 「うん。きみは?」
「あたしも、少し」
「腹がへったからかも知れないね」
「ほんとだわ。サザエ焼いて食べようか」
二郎は木片を求めて、浜辺を歩いた。しかし、適当なものは、何も見出すことができなかった。丸太を一本、渚で見つけ、ジャックナイフで木片を作ろうと試みたが、全然、無駄だった。
「白屏風を登ったらどうかしら」洋子が言っている。
「そうだね」
二郎はサザエをズックの布袋に移し、その口紐を絞ると、頭を通し、袋を首に引っ掛けた。彼らは砂浜を渡り、屏風岩の横あいから、両手で夜露に濡れた草株や木の根っこにしがみつきながら、絶壁の上方へと、登っていった。屏風岩のてっぺんまで来ると、そこには草地ができていた。洋子は小石を集め、サザエを焼くための炊き場をつくった。二郎は背後の林の中へと入って行き、松葉と小石を集めてきた。そこからは、夜の海が見渡され、いま、女木島の沖合いを、一隻の汽船の灯りが通り過ぎて行くのが眺められた。松葉を石の囲いの中へ敷き、その上に小枝を組み、その上にサザエを並べ、マッチをすった。あたりに、ぱっと、赤黒い光が広がり、洋子の頬がゆらゆらと映え輝いた。草地に腰を下ろすと、二郎は洋子を膝の上に引き寄せた。キスすると、二郎はたまらなく洋子が好きになった。やがて、洋子の唇が開くと、二郎は洋子の身を地面に横たえ、だんだん強く押し付けた。
ぷしゅぷしゅとサザエの焼け始めた音がした。
「サザエが焼け始めているんだね」
「ええ、サザエが焼け始めているんだわ」
二人は草地に寝っ転がってサザエを食べた。二郎は食べていくにしたがって、体がだんだん熱くなり、汗が肌ににじんできた。
「また、体が熱くなってきたみたい」
「まあ、ほんと?」と言って、洋子は二郎の裸の胸に手のひらをあてがった。すると、二郎はその手を、ぐいとつかみ取り、ごろんと身をひるがへして、洋子のからだの上にはい上がった。
「だめっ」と洋子が叫んだ。彼女は激しく身もだえした。二郎は片方の脚を、洋子の閉じた両脚の間へ割り込ませ、じっくりとめり込むようなキスをしながら、右手をワンピースの下へもぐり込ませた。
「ああっ、だめ、ごめんなさいっ」と洋子が叫んだ。
「いいや、いいや、何でもないんだよ」と二郎が言った。
二郎は、ちょっと、右手を洋子のからだから抜き取り、いま、ワンピースをどうかしようとこころみた。だが、洋子の膝は再び、しっかりとかたく寄せ合わされ、二郎は、一瞬、とまどった。と、その時、洋子は身を起こし、二郎の胸にすがりついた。
「ああ、ごめんなさい。あたし何もかもが、こわいんだわ」
「いいや、いいや」と二郎は言った。「こわがることなんか、この世に何一つないんだよ」
彼は洋子を抱きしめ、顔を起こすと、キスをした。洋子の胸は波打ち出し、息が、はあはあと聞こえ出すと、二郎は洋子を抱き上げた。
「どこへ行くの?」
二郎はだまって、絶壁の方へと進んで行った。
岩場の真上まで来ると、二郎は洋子を抱きしめたまま、腰を下ろし、絶壁の上へと、だんだん身を乗り出し始めた。
「だめっ、だめっ」洋子は身悶えた。
「ああっ、ああっ」洋子が叫んだ。がその時、彼らの抱き合った体は、岩肌を、ずるずると、滑り出し始めていた。洋子は、ぐったりとして、二郎にすがりつき、二郎は、背と両肘で、岩肌に接していた。次第に、滑り落ちる速さは早くなり、花崗岩の岩肌が崩れ、それはあたりに音を立てて流れ始めた。二郎は背と両肘に、火の出るようなうずきを感じた。そのうずきは、滑る落ちる速さが増すにつれて強くなり、熱を帯び、もはやその速さをどうすことも出来なくなった時、二郎のからだ一杯に、あつい熱の玉が炸裂し、気を失った。
深い深い、計り知れない時が過ぎ去った。渚で打ち返す夜の海のつぶやきが聞こえ、熱い燃えるような疼きを背中に感じ、やがて二郎は、胸に息づく洋子の唇を感じた。
「少し傷をしたみたい」
洋子は声を出すことができず、ただ二郎の首にすがりつき、わなわなと震える唇を、二郎の唇に押し当てた。
かちかちと、ふたたび欲望の灯がともり、それは波の音を遠のけ、背中の疼きを、やんわりと大きく、覆い隠していった。

   4.
 
 九月になると、一度、嵐がやってきた。風は涼しくなり、空の青も海の青も、色あせ、光はもとのように、明るくはならなかった。二郎は、裸のからだに、夏が死んでしまったことを感じた。
 白屏風へカニを突きに行って以来、洋子は毎日やって来た。夕暮れを海辺で過ごし、夜は二郎のテントで寝た。二人は時折、懐中電灯を灯し、「竹取物語」を読んでみたりした。明け方、岬の沖合いを漁船が通り、焼玉エンジンの音が岩肌にこだますると、洋子はプリントのネグリジェを着て、波打ち際をよろず屋の方へと帰っていった。そんな折、ああ、あたし、こんなに幸せなの初めてだわ、と洋子は言った。あなたは?
 「ぼくも、初めてだと思うな」
 すると、洋子はとても静かにほほ笑んで、二郎の目を見つめた。洋子は二度とテントへやって来なかった。

 日は暮れかけていた。二郎はテントを出て、波打ち際の黒い大きい岩の上によじ登った。フナムシが、がさがさとかすかに音を立てて、群れをなして、岩の割れ目へ逃げ込んだ。岩の下からは、打ち寄せる波が砕けて、ざっ、ざざっ、と音を立てているのが聞こえた。
 二郎はそこへ腹ばいに寝た。重ねた両手の上にあごを乗せ、ぼんやりと灰色の海を見つめていた。やや風があり、小さな三角波が立ち、それは時折、頂が崩れて白い水しぶきをたてていた。その水しぶきを見つめていると、やがてこの島にも冬がやって来るのがわかった。果てしない日々の生活の混沌の奥に、この夏もまた、いま過ぎ去ってしまったことを悟った。
 浜辺を洋子が歩いてくるのが眺められた。彼女は二郎を岩の上に見つけると、片手をあげてほほ笑んだ。
彼らは、テントの前の砂地に寝そべった。
「今日は、変な、お天気」と洋子。「お仕事には、行かなかったのね」
「うん」
二人は、しばらく黙った。
「ねえ、洋ちゃん」二郎が言った。「また、どこかへ行かなきゃならないんだ」
洋子は何も言わなかった。
「やがて、冬が来ると思うんだ」
「ええ、冬はきっと来ると思うわ」
「夏はどうやら終わったね」
「島で、冬は、越せなくて?」
二郎は黙って、どちらとも答えなかった。
「これから、秋は・・多分、神戸で本船、沖仲仕。そして冬は、大阪で中華の出前持ち・・。その後、きっと、春には、京都か吉野山かの旅館で、中番(なかばん)くらいやるのが精々だろう。・・そんな風に思える。・・さっき、岩の上で、ちょっと考えてみたんだけれど、冬のこと。・・」
洋子は何も言わなかった。
「夏になったら、また、来るから、ね」と二郎。
「そうね。またね。きっとね」と洋子。
しかし洋子には、なぜか、夏になっても、二郎はもう二度と来ないだろう、と思われた。それは、かり二郎は来たく思っても、どうしても来られないような事情が何か二郎の身に起こるに違いない、と思われたからだった。
しかしそれでも、最後の夜を、二人は、二郎のテントで過ごした。

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寝物語

   寝物語(45枚)

                    杏 土呂夢(あん どろむ)

   1. 錨鎖(びょうさ)

「『港は神戸か横浜か』だって?・・港?・・港がどうした?・・あなたは、どうして、そんなことばかり気にするんだろう?・・確かにそれは港だ。港での出来事だ。しかし、どこといって、決まった港ではなくって、暗い、不思議な、一枚のネガ・フィルムを見ているみたいで・・。岸壁。そそり立った巨大な船尾。鎖、錨づな、だな。巡視船みたいな快速船。・・」
「『・・みたいな』って?」
「快速船かい?・・格好、さま、がね。船体、それに装備・・」
「巡視艇じゃないんでしょ」
「巡視艇じゃ勿論ない・・外観、感じだけだ。・・やがて甲板に二人の男が・・」
「・・二隻なの、全部で・・船の数は」
「快速艇は最終場面だ。突然、接近して来て・・だから目下は一隻だ・・馬鹿でかい・・十万トン、とか、百万トン、とかね。・・もっとも百万トンはちょっと無理かも、だが・・でかいくせにポンコツで、船中どこにも全く人気(ひとけ)はなく、灯は無論ともらず、黒い巨大なケツを、不気味な奴を、夜の闇に、夜明けまえ、直前のことだがね。霧が真横に流れやがって、黒くそそり立ったでかいケツが、船尾が、霧の合間合間に、にゅっと顔を出しやがる。巨大な船尾なんてものは、その真下の海面から見上げてみろ、化け物同然だ。特に荷積みしていない時の貨物船だな。ぬっとした奇怪な奴を、丸裸の汚い奴を、臆面もなく全部さらけ出しやがって・・」
「お尻は好きではなかったの?」
「尻?・・尻がどうした?」
「嫌いかと思った」
「尻は好きだよ。あなたの尻のことだろう・・犬みたいにしてする時、あれは特にいいね。・・尻が一番美しく見えるのはあの時だ。・・しかし、いまは、貨物船の・・」
「貨物船が、どうしたの?」
「そういう時には『どうかしたの』ってきくべきだ」
「なぜよ」
「感じさ」
「合わせるのね、調子を」
「そう、調子だ、合わせるんだ・・というのも、調子を合わしても、また、合わさなくても、どちらでも同じ事柄だからな・・昇っても、昇らなくても、撃たれても、撃たれなくても、ちょうど、あなたとしてみても、してみなくても・・アルコール、もう一杯だけ、どうだい?」
「アルコールは、もう嫌いよ」
「そうか、嫌いか、残念だね・・一度、できなくなるくらいまで飲んでみたいなと思っていたんだが・・いいぞ、きっと」
「よかないわ」
「そうかな」
「全然よかないわ」
「そうか、全然よかないか」
「全然よかないのよ。そうよ。・・それよか、お話続けて。聞くの、好きよ。手。こうやったまま。そう。話してっ・・港でのことだったんでしょう・・」
「港だ。まさしく港だ。・・『夜道に日は暮れぬ』というからな・・」
「何よ」
「なに、夜はまだまだ長いということだ」
「そうよ、ずっとずっと、長いわ」
「夜って奴は、ほんとうに長いもんだね。いいもんだ。夜は長いから好きだ」
「そうよ、あたしも好きよ」
「これきし、明けなけりゃあいいんだがなあ、一切。・・のんびりしてるよ」
「港の話、どうしたのよ」
「聞きたいのかい?」
「そうよ」
「何か話す元気がなくなってしまったみたいだな・・馬鹿みたいだぞ、きっと。退屈な話だ」
「いいのよ、あなたの声がしているだけでも・・気持ちいい」
「そうかい。声ね。ならやってみよう・・影絵をみながら、頭の中の、ね。・・さて・・岸壁は、石畳。・・石畳の石は、御影石だ。表面は、荒削りで、随分デコボコしている。素足なら、きっと、あまり歩き過ぎると、足裏に痛みを感じるだろう。・・遠景に、倉庫群らしき、のこぎり形の屋根の線。朧な影絵。墨絵みたいだ。ほの白い霧がうごめく。この霧は、すぐ鼻先を、真横に流れ去り、また、流れ来る。その合間合間に、そそり立った巨大な船尾の黒い影。・・」
「岸壁。船尾。倉庫群、でしょう。・・で、あなたはいま、どこにいるのよ」
「倉庫群は、遠景だ」
「そうよ、倉庫群は遠景よ・・埠頭に、なの?」
「埠頭?・・埠頭がどうした。・・埠頭なんか、なかったよ、実際。見えないもの・・」
「石畳の・・」
「ああ石畳か・・いや、海中だ。ぼくが今いるのは海中らしい。しかし、水の感触は皆無だ。水の感触は、ない。沈む心配もなく、浮かんでおくための努力をした覚えも、全然、ない。ただ、眼前に鎖が一本、錨鎖だな。海中から、天空へと、のびている。ほぼ、四十五度の角度をなしてね。それは下反(したそ)りの曲線で、そそり立った暗黒の船尾へと・・」
「あなたは、いま、海中なんでしょう」
「そうだ」
「なら、水の感触があるでしょう」
「なかった」
「馬鹿げてるじゃない」
「馬鹿げてるよ・・だから、話したくないと云ったんだ。夢じゃないけれど、まあ、夢みたいなものさ。・・それに、水の感触があったって云っても、別に、不都合はないんだけれども・・しかし、実際、全然なかったんだ。問題は、鎖、なんだからね、眼前の。ぐっと、天空めがけてのびている・・」
「いいわよ、続けなさい」
「で、ぼくは一握り一握り、右手、左手、右手、と、一手一手、鎖をのぼり始める。身を両腕にぶらさげて・・」
「だるいでしょう」
「腕かい」
「ええ」
「非常にね・・しかし、事実は、これも何も感じなかったがね。一手一手、登って行く。いまでは、ほとんど、ぞっとする程の高さにまで登っている。・・と、この時、巡視艇みたいな快速艇が現れる」
「夜は、明けたの?」
「夜は、まだだ、明けていない」
「じゃ、なぜ見えるのよ」
「そこが困るんだ。要するに、変なんだから。客観的に、自然科学的には、行かないんだから。頭の中に、ぽっ、ぽっ、と浮かんだ影絵だもの・・倉庫群だって、考えてみると、墨絵様にすら見えっこないんだ。港全体、ずっぽり暗黒なんだもの。・・にもかかわらず、ぼくには、見える。快速艇なんかは、特によく見える。甲板には、二人の男が立っている。ほとんど、平行に並んでね。平然とした、面持ちで、ね。・・」
「じゃ、どんな、身なりよ、正確には」
「男たちかい」
「そうよ」
「身なりは、見えん。顔立ちも、見えん。必要ないからだ・・だけど、甲板上に、二人とも、真っ直ぐに、身動き一つせずに、しかし、決して緊張しているわけでは全然なく、・・泰然と、かなり接近した距離に、ほとんど、平行に・・」
「平行?・・よくわかるのね・・まあ、いいわよ」
「で、甲板の二人の男は、二、三会話を交わした。こんな具合だった。
『おい、見たか・・何と、見る』
『まるで生きた人間みたいに見えるんだが・・』
『人間なら、あんな風に、あんなところに、ぶらさがったりはしないだろう・・時刻のこともあるしね』
『時刻、ね・・なるほど・・それにしても一風かわった図だな・・こころみに、一発撃ってみて・・しかる後、その結果をみて判断する』
『撃てば、きっと図は壊れるだろう』
『撃ってみりゃ、あれが人間か、それとも、人間ではないのか、ほとんど決定的にわかるだろう』
『あれが、もし人間であるのなら、影は、鎖の影から離れるだろう』
『落下するに違いない』
『人間なら、きっと、鎖から・・』
『ライフルっ!』
『ライフル用意っ!・・完了』
男は、すでに、ライフル銃を構えている。照準の望遠レンズの十字が、鎖にぶら下がって見える男の心臓のど真ん中に当てられる。引き金が引かれる。弾はシュルシュルと音をたてて進行し、男の心臓を、背から胸へと射抜く。
すると、鎖の男は、前後に二、三度、わが身が大揺れするのを感じる。からだ中が生暖かく、同時に、甘く、熱っぽい眠気を覚え、心地よい。
男たちが云う。
『不思議に、落ちん。・・なんだ、あいつ』
『まるで人間ではないみたいだ』
『人間なら、落ちるだろう』
『あれは人間ではないみたいだ・・きっと、馬鹿か気違いに違いない。ボロかも知れん』
『まるで人間みたいな、しかも、全然人間ではない、そんなもの、だったんだろう』
『相手にならんな』
『相手にならん』
快速艇は、エンジンの音もなく、かろやかに、U字型の航跡を残して去って行く。
岸壁の御影石の石畳の上に、二人の男の影が浮かぶ。・・」
「二人って、快速艇の、さっきの二人?」
「いや違う」
「でもまた二人なんでしょう」
「二人は二人だが、また違う二人だ」
「二人ばかりなのね、現れるのは」
「偶然にも、そうだね、たまたま。・・で、男たちの間には、会話が交わされる。こんな、具合だ。
『ときに、あの鎖の影は何だ』
『人間みたいだな』
『まるで死んだ人間みたいに見えて仕方ない』
『生きている人間なら、ああ固着はできまい』
『生きている人間なら、片腕で、ああ身を静止の状態に保ち続けることは出来まい』
『だからあれは死んだ人間だ』
『〈錨鎖と死びと〉だ』
『そうだ。〈錨鎖と死びと〉だ』
『〈落ちない死体〉だ』
『そうだ。〈落ちない死体〉だ』
『〈錨鎖と死びとのシルエット〉だ』
『そうだ。・・シルエット、だ』
『ほかに何か、我々に云うべきことがあるか』
『云うべきことは、もはや、あるまい』
『そいじゃ、行くとするか』
『行こう、行こう』
岸壁の二人の男の姿は消える。・・」

「どうしたの?」
「何が?」
「続きよ」
「お仕舞いだ」
「変なお話」
「ひとに、無理矢理しゃべらしておいて。・・よくそんなことが云えたもんだ」
「でも本当に変じゃない。・・なぜ落ちないの、あの死体?」
「どうした」
「落ちないんでしょう・・撃たれても」
「男かい・・ああ、あれは落ちん」
「だから、なぜよ」
「落ちてはいけない・・落ちると、絵にならん。図にならん」
「無茶苦茶じゃない」
「無茶苦茶と云やあ、まあ、無茶苦茶だな・・しかし、落ちんよ、あの男」
「だから、なぜよ」
「なぜなぜって、何が、どうした・・物理学的にかい?」
「そうよ」
「何かないかな」
「何かって」
「いや、あの男さ。死んでも、なおかつ、錨鎖から落下しない・・なにか工夫・・ぼく自身は、この際、物理学的法則なんて無くっても、全然平気なんだけれどね」
「腕を、突っ込んでみたら?」
「腕を、突っ込む」
「環・・鎖の」
「環、ね」
「こう・・」
「こうかい」
「そうじゃない、こうよ」
「こう突っ込んで、かつ、ねじるんだな」
「そうよ」
「腕の骨の関節が、鎖の輪の内部に・・きしむ。だから、たとえ男が死んでも、死体は鎖から離れない・・こういった寸法だな・・ふううん・・少しばかり、指輪と指の関節の関係に似てるね」
「そうよ・・男は背に、心臓に、弾を受けるでしょう。そして、ドギツイ心地よさを覚えるでしょう。その刹那、もう、すっかり無意識のうちに、片腕を鎖の巨大な鉄輪の中に突っ込むのよ。そしたら、偶然、関節が鉄環にきしんで・・」
「抜けなくなる・・全然。・・なるほど、あなたは、なかなかの力学通だな・・あるいは、詩人か・・こういった場合には、骨と鉄の原則・・骨と鉄環のきしみの原則、こいつを応用してみるべきだったんだな・・忘れないで、覚えておかなければいけないぞ。ふううん、なるほど。・・しかし、環がでっかいと、どうするんだい。錨鎖の鉄環がぐっと大っきい時・・すぼすぼで、すぼ抜ける、かも・・」
「環は、だから・・適当、とするのよ」
「ちょうど、まあ、偶然うまくきしんだ、とするんだな・・なる程、その時には、確かに図はでき上がるな」
「〈落ちない死体〉よ」
「うん、そうだ・・やっと、本当に、出来上がりそうになってきたな」
「〈錨鎖と死体のシルエット〉よ」
「そうだ、そうだ・・で、あなたにも、はっきりと見えて来たかい」
「なに?」
「図だ」
「見えるわ」
「はっきりと、見えるかい」
「はっきり、はっきり、よ」
「不思議だな・・じゃ、どの方角から見えている?」
「方角?・・方向を、しゃべるの?・・錨鎖は、だんだん、画面を、左上方へ昇って行っているわ・・・角度は、三十度くらい、横軸から・・右回りの方向に、曲がって見えているけれど。・・男の死体は、右腕で錨鎖にぶら下がり・・あたしは、男の右肩の斜め後方から仰ぎ見ているかたち・・左方に、ぐっと上方まで、船尾の、ぬっとした、丸い、影の、濃い黒。・・遠く背景に、倉庫群のノコギリの歯型の薄墨色の屋根の影。・・右方は・・遥か、遠景の倉庫群までのびる岸壁の石畳。・・影の程度は・・船尾、錨鎖、男の死体、これが一番濃い黒。・・濃淡の差こそあれ、画面の他の部分も一様に・・」
「よしよし・・まあまあ、だな。・・ところで、本当は・・あなたも一度、心臓を射抜かれてみたく思っているのと違うか・・」
「いやよ・・あなたは?」
「おれは、もう、大変なものだ。・・射抜かれてみたい・・ちょっとした気分だろうな・・ああいった風なものは・・」
「あたしも撃たれてみたく思うわ」
「そうだろうとも・・・・で、背からかい、胸からかい・・」
「撃たれるの?・・背からよ・・不意に」
「不思議と、やはり、ぼくとそっくりだな・・というのも、胸から射抜かれるよりも、逆に、背からの方が、きっと甘美に違いない・・美的には、逆だろうがね・・」
「なぜ・・?」
「似たり寄ったりかな」
「そうよ」
「しかし、まあ・・ああ云った風な凝ったポーズで死ねるって奴は・・しかも、背後から、それも偶然、予期ぜず、だからな・・こりゃ、よっぽどの幸せ者に違いない・・ちょっとや、そっとでは・・滅多にいないだろうなあ・・『すると、その時』だからなあ・・人類史上にも・・滅多に・・」
「眠いの?」
「あああ」
「アルコールが、回り過ぎたのよ」
「あああ」
「キスしてあげようか」
「うううん」
「どこだと思う」
「うううん」
「ここよ・・ねっ・・心臓の、裏っ側・・いいでしょう、気分。・・あたしを独りにしないで、ねえ、ひとりで眠ったりしないで・・ねえ・・」
「起きてるよ、起きてるよ、眠ってなんかいないよ・・」
「一体、なに考えているのよう・・」
「なにも・・ただ、また、今夜で、お別れだなあって・・ね。・・独りになると、時折、へこたれそうになる時がある、苦しくて・・淋しくて・・」
「また、そのうち、会えるじゃない」
「そうだよ、そして・・その、またいつか、に・・十年もたって、そして、きっと二度と会えなくなるような・・」
「そんなこと云わないで・・あたしは、ずっと、来るわよ・・一生・・」
「そうだね」
「あたしたち、会うたびが、新婚旅行なのよ」
「そうだな」
「東京へ出ていらっしゃいよ」
「うん」
「そしたら毎週会えるわ」
「うん」
「東京、嫌いなの?」
「うん」
「あなたのこと、忘れたりしないから」
「うん」
「あたしにも、キスしてっ・・やさしく・・うううん違うわ・・心臓の裏っ側・・そうよ・・あたし、今から、死んだ女になるのよ・・」


   2. 海上円形遊歩道

「もう一度、もう一度って、おそらく、もう五回は話したろう」
「五回が十回だって、わからないものは、わからないんだから、そうでしょう。・・きっと、話し方が悪いのよ。あっち飛び、こっち飛びになるんだもん・・」
「それは、聞き手のせいでもあると、云えるよ・・聞き手のお方がすごく巧みだから、そんな風にも、なるのかも・・」
「そうよ、聞き手はすごくうまいのよ。・・結局、島の人だったの、その男?」
「家庭教師かい?・・いや、家庭教師は、どこか、都会から不意とやって来たらしい・・ふらっとね。海辺の生活にあこがれてね。古ボートなんかを一艘買って・・自分でオールを引っかいて・・流れの速い海を一つ渡って・・その島へ」
「都会って、どこ?・・東京?」
「まあ、東京だろう。・・京都、かも知れないがね・・」
「じゃ、島は?・・なに島(じま)?」
「塩飽(しあく)諸島あたりだろう、瀬戸内海の。なに島、とはっきりとは云えないけれども・・推測すると、大体、そのあたりになる。・・瀬戸内海の東と西から満ちて来た潮が、丁度そのあたりで出会うことになる・・そして、潮が、湧く・・しおわく・・しわく・・しあく・・ってな、まあ,そう云った寸法だ・・」
「要するに、その男は小舟を漕いでその島へ行く。そしてそこで、ぶっつけに、村長さんの紹介をもらい、例の娘の家へ、家庭教師として住み込む。・・」
「そう・・その通りだ。そして『首』とか『パンティ』とか、要するに授業中の娘の勉強部屋での、こまごまとした出来事があり、突然『海上円形遊歩道』の浮上する、沖合いでのボート遊び、娘殺害、・・それから『事務所の二階』つまり告白、だな。で、最後が、娘再登場、ボート遊び、『ね、ボート遊びに連れてって』と云った、具合・・それで、まあ、めでたしめでたし・・ま、荒項目はこんなところなんじゃないだろうか・・」
「それにしても、ストーリイ。・・強引ってのか何ってのか、荒唐無稽もいいところね・・」
「そう、・・馬鹿らしさ、徹底した馬鹿らしさ、ここにこの話の面白さがあるんだよ。・・それに、ベッドで、こう、頭を横にしている時なんかには、こう云った空想噺が、よっぽど、いいんじゃないか・・空想噺が」
「空想噺もいいけれど・・あまりにも他愛なさすぎて、白けて、実感迫るところ、ないじゃない」
「ないかい」
「ないわよ・・サディスティックもいいけれど、何か一方的過ぎて、間が抜けていて、単なる観念的にしか過ぎないじゃない」
「娘が殺されながら口にする『もっとひどく』なんていうセリフは、なかなか効いていると思ったんだが・・」
「陳腐・・女なら誰だって口走るでしょう・・俗よ」
「ま、俗といや俗か・・しかし、俗でなぜ悪い、とも、ちょっと云ってみたいけど・・」
「それに、云いたく思うのはね、殺害の方法だけじゃなくって、娘のからだつき、何もかも細ずくめ、あれがすでに変なのよ。都合よくでき過ぎている。すべてが、細い。細長い。小さい。小さくて可愛い。痩せぎすで、背は高い。・・でしょう。こう云った、あんばいでしょう。お誂え向きに、でき過ぎているでしょう」
「十三、四の娘ってのはそんなもんだ・・十五、六になると、今度は、逆だがね。・・縦に伸びきったばかりの頃合いなんだから」
「たとえば、こんな描写・・娘の頭は『小さくて可愛く』顔の輪郭は『美しい細面(ほそおもて)』・・これはやがて洋上遊歩道の白亜のコンクリート面に幾度も幾度もぶっつけられて砕ける娘の頭だし、『あまりにも小さくて可愛い口』だって、初めはコーラの瓶の口をくわえるだけの口だけれど、やがて男の空想では『あまりに勃起しすぎたので、小さな娘の口には、大きすぎてくわえられないのではないか』となり、『細くて長い可愛い首』は『内部の咽喉の、その細さのことを考慮すると、いよいよの時には咽喉全体を、すっかり、塞いでしまい、きっと、娘は窒息気味になり失神して仕舞うに違いない』という、馬鹿げたサディスティックな幻想となり、その他にも『両手で握り切れそうに思える細い腰』『鯖折りでもすると、本当に折れてしまいそうな細い腰』・・何よりも、男の手が異様に幾度も触れているのは、娘のからだの他のどこでもなく、『細くて長い美しい首』でしょう」
「そりゃ、まあ、そうだけれど・・その点、乳房や、内股や、下腹にだって触れてはいるよ」
「そうよ・・さっき、そう云ったのは覚えてるわ・・でも、繰り返し繰り返し、幾度も幾度も、触れたのは、首筋でしょう・・首には、授業中、幾度も幾度も触れたばかりでなく、両手で娘の首をゆるく絞めて『ひとひねりだな』なんて、冗談さえ云ってるのよ・・」
「それは家庭教師の好みだったんだろう。・・それに娘の方だって、勉強机の椅子の、その背を後ろへ傾斜させ、窓の敷居にもたせ掛けることによって、幾度となく白いパンティの股の部分をわざと見せていることだし、しかもその際、艶やかな眼差しで家庭教師の目を見つめながらそれをやっているんだし、これは完全に・・」
「しかしそれは前もって『おれはスカートの中の下着を見るのが好きだ』って家庭教師の方が娘に告白しているのでしょう。だからそれに応えて娘は・・それに実際にはそうでなくっても、なかったとしても、娘が家庭教師を好きになったり、恋をしたり、あるいは、誘惑してみたくなったりしても、それはそれで、どうってことないじゃない。わたしが云いたく思っているのは、家庭教師の娘への対し方よ。非常に非現実的で、観念的で、完全な妄想じゃない。どうして娘を抱きしめてやって、キスしてやって、『おまえが好きだ』と云ってやれないの・・それが正しい始まり方よ。ところが、そんなことは、一切、云いもせず、しもせず、いきなり『首』でしょ・・『パンティ』でしょ・・」
「曖昧さ・・かい」
「そうよ」
「微妙な・・むずかしいところだね」
「男は、どうも、煮え切らない」
「勉強部屋での男・・そうだね・・あなたの云う通りかも知れないね。・・煮え切らない・・溝がある。・・だけど、その曖昧さは、次の空想的事件への・・」
「海上円形遊歩道?」
「そう」
「海上円形遊歩道って、いまだに何のことだかはっきりしない・・」
「もう、ひどく、繰り返し云ったよ」
「島からは、完全に、離れているの?」
「沖合いだって何度も云ったよ」
「いくら云われたって、イメージが浮かんでこないんだから仕方ない」
「原作が悪いんだ。・・あのねえ、島の浜辺から、ある夜、二人はボート遊びに出掛けるんだ。ボート遊びは、彼等にとって、これが初めてってわけじゃなくって、知り合って以来、もう一週間も経っているだろうが、それ以来,夜毎、四、五時間も遠乗りをやっているんだ、夜更けにね。近くの無人島へ行くこともあるし、沖合いをぐるりと一周して帰ってくることもあるけれどね。・・そんなある夜、沖をさらに沖へ向かって進んでいると、突然、海中から、円形遊歩道が、まるで『白鯨』が浮上する時みたいに、あたりの海面をまるで嵐様の状態にかき立てて浮上して来たんだ。・・もっとも、『白鯨』が浮上するとき、あたりの海面がどのような状態になるのか、ぼくは全然知らんがね。きっと海面がすっくと持ち上がり、その持ち上がった海水が、滝のように落下し、その滝のど真ん中に、何か巨大な物体が突然浮上しているのだろう。・・この円形遊歩道はさしわたし百メートルというから、相当なものだろう。『白鯨』の浮上どころの騒ぎじゃないのかも知れない。・・内部は中空になっていて、つまり内部までコンクリートがびっしり詰まっているのではなくって、外周が幅三メートルのコンクリートの円形遊歩道になっていて、・・その内側の部分は、円形プールみたいに、外部の海面と同じ高さまで海水が詰まっているんだ。つまり遊歩道の底の部分では、内部と外部がつながっている部分がある・・渠(きょ)、ではないし、『通底器』などは、全然、関係ないことだろうし・・海面下に、だから、トンネル様のものが・・」
「コンクリートのドーナツ形の遊歩道が海中に・・」
「そうそうドーナツ形だ。ドーナツ形だ。・・で、この見事な遊歩道の浮上と同時に、時は、いつしか、真夏の真昼間(まっぴるま)に飛んでいるんだ。真夏の真夜中から突然ね・・だからこそ、遊歩道の白亜が、ギラギラと眼を射るんだ。・・垂直の陽光を、垂直に反射してね、そこら中に。・・ちょうど、気違いじみた夕立の雨足(あまあし)みたいなもんだ・・」
「二人は、もうすでに、遊歩道に上がっているの?」
「上がっている・・上がるのに、こ一時間ほど、苦労した後にだけれどね・・波が高いために、それからまた、上がり口というものが無いために・・くどくど、その情景は云うに及ぶまい・・足場のボートが、上下左右に乱動している・・一メートル、ときに、二メートルほども、・・コンクリートの塀に跳びつき這い上がろうとしているようなもんだ・・幾度も失敗しては、砕け散る水しぶきを上げる波間に叩き落とされては、また、ボートに這い上がり・・再び、コンクリートの城壁に挑戦する・・こう云った場合には、理性などはどこかへ吹っ飛んでしまい、役に立たない・・からだ中が心臓になったみたいで、情熱だけが一切をとり仕切る・・」
「そして、上がる・・」
「そう、上がる。・・上がってからというものは・・沈黙の時,凝視の時が始まる・・信じられないような巨大な力が、すべてを錯乱さす・・娘の全身からしたたる汗が、白亜のコンクリート面に落ち、見る見る蒸発して行く」
「娘は、じゃあ、横たわっているの、遊歩道に・・」
「そう、横たわっている、仰向けに・・そして、灼熱の陽光、遊歩道の白の反射と目の疼き、汗、キス、そして『もう死ぬ』、『殺して』、『もっと酷く』というつぶやき。それより先に、男は、すでに錯乱しており、娘の長い髪の毛をつかみ、白亜のコンクリート面に、仰向けに横たわっていた娘の頭を、そのコンクリート面へ、二度、三度ならず、十度も、打ちつけていたわけだ・・もうすでに、叫ぶこともできず、つぶやくことも出来ない、完全に駄目になっている娘の可愛い頭を、なおも、・・し続けるわけだ・・」
「なぜ、そうも、しつっこく、するのよ」
「錯乱。自動仕掛け。発作、だ」
「可哀想に」
「娘かい」
「そう」
「なに・・これは勿論、男の妄想なんだがね」
「妄想であろうとなかろうと・・残酷よ。むしろ、妄想を抱くだけの方が、現に、実際に、残酷を行う人より邪悪よ」
「まあ、そう云った考えの方が、本当は正しいのかもしれないがね・・ところで・・次は『問答』場面へ飛ぶわけだ」
「『事務所の二階』?」
「そうそう。二人の男の問答だ。相手の男ってのは・・」
「事務所は、何の事務所なの?」
「出張所だ、船会社の、ね。・・もっとも、業務はほとんど途絶えているがね。・・木造二階建、八畳くらいの、土足であがれる板の間が、上に一つ、下に一つ、ってな、まあ小屋みたいなもんだ。・・家庭教師と知り合った動機といえば、この事務所の男が島一番の蔵書家だったんだ。島一番、などと云っても知れたもんらしいがね。しかし、島一番だったことは事実だし、またそのことを知らないものは、島には誰一人居ないくらい、有名だったんだ。そんなわけで、家庭教師も島へ着いた次の日の夜には、もうその男の書斎を訪れ、めずらしいシェリー酒を一杯頂戴しながら、あれこれ本の話をやったわけだ。それから、後の日々にも、彼等は毎日顔をあわしたに違いないんだ。それと云うのも、家庭教師のボートは、事務所の真下の岸壁に舫(もや)われていたし、ボート遊びのたびに、彼は、事務所にちょっと立ち寄り、一服点けたに違いないんだ。事務所の男と家庭教師との関係は、まあこういったところだ。家庭教師が島へ来て以来まだ一週間そこいらって云うのだから、彼等の間もそれ以上ではあり得ない。しかし、一般的に云って、男と女の間だって、最初のひと目、その後、まあ、一週間くらいのものだろう、長くても・・情熱的恋ってやつは、一週間たっても何もなけりゃ、大丈夫・・永遠に何も起こらないよ・・それと同じだ・・だから一週間そこそことは云え、男同士でも、通じるものが通じるには、十分な時間だったのかも知れない。・・家庭教師が、娘のことを、一通り告白し終えると、事務所の男は次のように云ったわけだ。
『あなたの告白を聞いて真っ先に感じることは、科学的に云って、到底〈事件〉を信じることができないと云うことです。特に白亜の建造物(ただし、非実用的)とあなたは云いましたが、たとえ実用的であっても、そんなものが海中に、波しぶきを立てて浮かび上がって来た、などと云われても、目下の科学の水準では、信じるも信じないも、まったく論外、滑稽、ないしは漫画・・その種のものとしか、認識できませんよ。本当は、何が云いたいのです。わたしを困らせないで下さいよ。あれは、何かの暗示、暗喩みたいなもんなのでしょうか』
『いえ、あれは、純然たる、科学的事実です。わたしは見たし、あの娘(こ)も見ました』
『見たのは、よろしい。あなた達に見えたのは、いいでしょう。あなたが見、そして、あの娘(こ)も見る。あなたが暗示を掛け、娘は暗示に掛けられる。若い娘にとって、恋の刺激は、その身に実に烈しく感じられるものです。真夜中、真っ暗な海原の真っ只中で・・小舟に命を託した二人が・・あり得ることです。しかし、いくらあなた達が見たところ、真には、存在は、しないのです。幻です、それは。〈沖の白石〉でもが、錯視の核、にでもなったのでしょう』
『〈沖の白石〉?』
『沖合いに岩礁があるでしょう、白い巨大な岩が、三っつ、四っつ、海面に、そそり立つ』
『あれは、知っています。しかし、全然、無関係です。それに、あのような水成岩ではなく、完全に真新しいコンクリート造りでした。あれは夢どころか、真に、現に存在したのです。わたしの汗は、あのやけた白亜の遊歩道に飛び散ったし、娘の血も、同じように、飛び散ったのです。もし白亜の円形遊歩道が存在していなかったのなら、愛もなく、殺害もなく、・・一切が、不可能だったことでしょう』
『そうです。その通りです。もし存在しなかったら、すべては不可能だったのです。そして、事実、白亜の建造物は存在せず、その結果、殺害もまた、なかった』
『いえ、それは、ちょうど、真反対です。遊歩道は怒涛と共に浮かび上がり、真夏の陽光は地獄の烈火のごとく照りつけ、娘は、死んでしまったのです』
『殺されてしまった』
『わたしは殺したのです。しかし、娘は、死んだのです。殺されたのじゃありません。正確には、わたしは殺し、娘は死んだのです』
二人の男は、ここで、はたと口をつぐんだ。それというのも、事務所の木造の裸の階段に、靴音が昇って来たからである。二人の男は階段の方へ、気をとられた。現れたのは夏子だった。死んでいるはずの、例の十四歳の娘だった。そこで、家庭教師は『ああ、夏っちゃん、生きていたの』と叫んだ。
『おおげさに云わないでよ。あなたがあたしを待っててくれたことくらい、わかってるわよ。・・でも、ひと前で、おおげさは、大嫌い』・・
それから、例の言葉『ねえ、ボート遊びに連れてって』が続き、『行こう,行こう』が応える。
事務所の二階の男こそ、面の皮だが・・そこはまた、島育ちの人間だ、すべてはユーモラスと解釈し、妄想とはいえ、みずから事件に一枚加われたことに、日常得がたい満足の念すら、覚えたわけだ。・・
家庭教師について一言すれば、禁欲状態で、烈しく恋をしている男の精神とは、時に異常に妄想的であり、もし冷静に客観的に観察すれば、ほとんど滑稽の域にまで達し得る、と云う事か。・・終わってみれば、まあ、お粗末一番、といったところか・・」
「いいわよ・・お粗末の点は。・・それよか、長い間、ありがとう・・」
「またしてあげるから、ね」
「窓、開けようか・・きっと、夜気が・・気持ちいいわよ、裸の肌に。・・金木犀が、すごく匂う・・」
「ぼくが開けよう・・秋冷えだ、なんという心地だ・・はや秋だね。今年初めての秋みたいだ・・星が、きっと冴えているに違いない」
「秋の夜、はや夜半(よわ)過ぎて・・」
「東空(とうくう)、冬の星宿・・」
「プロキオン、シリウス、冴えて」
「黒空・・黒空・・黒空、艶に・・」
「無茶苦茶、ね」
「歌なんてものは、出鱈目飛ばしときゃいいんだ・・出て来てごらん、恐ろしい程、鮮やかだ・・」
「真上、ペガサスでしょう」
「まあそうだ。正確には、アンドロメダ姫だ」
「カシオペア、ペルセウス・・プレアデスの姫君たちは?」
「きれいだぞ・・全部見える・・ペルセウスのα、散開星団、メデュサの生首・・はやくおいで」
「あたしは、出られない。独りでは、動けない。・・ねえ・・あたしは今夜、囚われのアンドロメダになるのよ・・手にも足にも、縛(いましめ)が・・」
「じゃ、おれは、何になるんだい。化け物鯨?・・鯨座のデネヴも見えてるね・・囚われの・・エチオピアの・・姫君の・・」
「そうよ・・そして、ベッドじゃなくって、べランダで・・ベランダで愛されるのよ・・アンドロメダを見ながら、カシオペアを眺めながら、空の星々全部を仰ぎ見ながら・・あたしは、されるのよ・・縛は・・これ」
「鞭は?」
「あなたのベルトでいいじゃない・・細目のものなんでしょう・・色も、丁度、黒だし・・お話の、あの娘(こ)みたいに、可愛い可愛い夏子ちゃんみたいに・・あたしも滅茶苦茶されるのよ・・星を見ながら、星々を仰ぎながら・・白鳥が見えるわ。西の空に帰ろうとするのね。ベガ、そしてアルタイル、夏の、終わりの、恋人たち。・・」

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