手術幻情 (97枚)
杏 土呂夢(あん どろむ)
日の出前の湖周道路をぶっ飛ばすのは、人影はもとより、車影もほとんどなく、気ままで、爽快である。
このあたりでは、道は湖岸に沿って、自然の中を、ゆるく蛇行して進んで行くのだが、湖の所々に突き出ている丘陵に差し掛かると、雑木林の中を急なS字のカーブの連続を登って峠の頂上に行き着くこととなる。
見透しの全然効かない急坂を右に切り、すぐに左に切って、また右に切ろうとした峠の頂上付近で、路肩に立っている凸面鏡に、対向車の車影が見えた。と思ったその時、道路の左側の茂みの中から、狐か鼬(いたち)かが、地面を這うようにして、男の車の前に飛び込んで来た。男は無意識に、避けようと、咄嗟にハンドルを右に切ったのだが、センターラインを割ってしまい、急カーブを曲がって、いま、姿を現した瞬間の対向車に、急ブレーキを踏み込んでいたものの、スピードを出し過ぎていたためか、男の車はスリップし、右のライトのあたりを、派手にぶつけてしまった。ポーンという、衝突の凄まじい音と共に、ライトのガラスが砕け散った。
大き目の、半透明の、黒色のサングラスをかけた背の高い女が、現われ、男の運転席を覗き込む。「どうしますか?」
男は、女が事故処理の仕方について、訊いているのだろうと思う。
「電話は?」女が訊く。男は、女が、警察か保険会社への、電話連絡のことを言っているのだろうと思う。
男は、ギアをバックに入れ、緩くアクセルを踏んでみる。女の車に喰らい付いた男の車は、感じ悪くスリップをし続けるだけで、離れようとしない。
「連絡は?」女が訊く。
「じゃ、免許証…」と女が言う。
男は、免許証を、女に渡す。名前か何かでもをメモるのだろうと思っていると、女は男の免許証を見もしないで、肩に引っ掛けていた、黒い、細い、長い革紐のついた小っちゃなレザーのバッグの中に、そのまま仕舞い込んでしまった。変わったことをする女(ひと)だな、と男は思った。しかし、男は、ひと言もしゃべろうとしなかった。
何回目かに、男が、思いっきし強くアクセルを踏み込むと、ひと揺れした後、やっと、二台の車は離れた。
男は工具で、女の車のフロント右の車輪のあたりを二、三度、力任せに捏ね上げた。走行は充分可能だろう。車はドイツ車で、ダークグリーンのロードスターだった。
女は、小さく一つうなずくと、「急いでいるので」と言って、急発進し、タイヤを軋(きし)らせ、去って行ってしまった。
峠を下り始めると、男は、ぶつけたあたりのフロント右に、かすかな異常を感じた。そこで、車を止め、女の車にしたと同じように、鉄棒をかまして、二、三度乱暴に捏ね上げた。そして、この時初めて、男の頭に、想いが一つよぎった。美しい女だ…揺るぎない…正真正銘の…なんという、…。男は、この時まで、狐か鼬(いたち)かの飛び出しと、回避、衝突のショックで脳味噌が凍てつき、きっと、失語症みたいになっていたに違いない。
「坊ちゃん、あなた免許証がどのようなものか、分っているんでしょうね」〈センセイ〉が、電話で、言っている。「信じられないようなヘマですよ。…ヘタすると、あなた、一巻の終わりにすらなりかねない…相手の…つまり、手合い次第では…。どこか、ヤバイところへでも持って行かれてごらんなさい。…どうするつもりなんですかねェ、今後?…」
男も、内心不安がないでもない。時間が経つにしたがって、むしろその念は増大して来ているみたいだ。しかし、男は言っている。「あの女(ひと)は、そんな女(ひと)じゃない。…あなたは悪く解釈し過ぎている…」
「解釈も何もありませんよ…わたしは一般的のことを、客観的に、ただ、亡き父君の顧問弁護士としてですな、言っているまでですから…当然じゃありませんか…なら、訊きますが、相手の名前は?相手の電話番号は?…尋ねていますか?…あなたも相手の免許証を預かりましたか?…それごらんなさい…全然、何もしていない…ただ一方的に、されるがまま、なされるがまま、つまり、奪われるがまま、といった体(てい)…どうです、図星でしょう…腑抜け同然じゃありませんか、極めて失礼な言い方を敢てさしていただければですよ…」
「ま、結果的には、そのようにみられても、仕方ない節(ふし)が…。しかし、本当は、それとは、ちょっと違う。まあ、全然違う。しかし、他人(ひと)に言っても仕方ない。理解されないだろう。うまく、口にはできないような、デリケイトな問題がね。つまり、手っ取り早く言えば、感情、みたいなもの。物事には、法律以上があり、法律的があり、法律以下がある。あの女(ひと)のことは、超法律、超日常、超打算、つまり、特別、不合理、不公平、即ち、一切、全て、なのだ。おれは、信頼している。また、目下、そうせざるを得ない。そうしないと、すべてが倒壊する可能性が出てくる。とはいえ、何か法律的の問題が起これば、仕方ない、あなたにお願いせざるを得ないでしょう。だが、万が一にも、そのようなことは起こらないし、…あの方はそんな方じゃないからだ。それに、もし、そのようなことが起これば、あなたの勘の方が、わたしの勘より、優(まさ)っていたというようなことになりかねない…そんなことはあり得ないし、また、あってはならない…それに、金など…慰謝料か…もし求められるのなら、即座に、いくらでも払ってしまったらいい。躊躇わず、払ってください。おれは、我慢するよ。任せるから、よろしく…」
「そんな、気違いじみた、無茶苦茶な、ほんとに、もし父君(ちちぎみ)がいらしたら、もし、父君がご存命なら、あなたなんぞ、鐚一文(びたいちもん)…お金お金といっても、父君のご遺産なんですからね、父君の残された。…わたしは、あなたの父君に管理を頼まれ、そのお約束を誓った者として、法律家としてですな…ですから、坊ちゃん、健全なる、…ご遺産だけで、その配当と金利だけで、何もしなくても、ただ健全に、配当金とお利息だけで、人並みのリッチな生活が…。もし、元金さえ目減りさせなければ、ですよ、ずっとずっと、保障できるのですから。…ほんの少しでも、元金に手を付けてはいけません。そんなことをすれば、立ちどころに、生活に困り、仕事につかなければならないような羽目に、働かなければ生きていけないような状態に…」
「仕事か、おれは仕事なんぞ望んでおらん。仕事は人間よりもコンピューター、つまり、ロボットか、ロボットに、より、向いている、ふさわしい…」
「そんな、もう…わたしはそんなことを言ってるのじゃありません…わたしは、坊ちゃん…」
「あなた?あなたですか?」電話に女の声がしている。T道路のB大橋近くの喫茶店にいるから来ないかと女は言っている。「五分で来られるでしょうね?」
「それは、無理でしょう…」
「なら、もう居ないかもしれないわよ…」
「いくらなんでも、それは無理でしょう」
「ぶっ飛ばしなさい、ぶっ飛ばしなさい、もし、あたしに逢いたいのなら」
『これは、困ったことだ』と男は思う。しかし、男は、諦めようなどとは毛頭思っていないみたいだ。
アクセルを踏み込む度に、タイヤがスリップして軋む。男は、アクセルペダルと、そのペダルを支えている細くて丸い鉄棒との溶接部分でもがヘシ折れはしないかと危ぶまれてくる程度にまで、アクセルを、極度に、乱暴に、踏み込む。そして、そのあげくは、急ブレーキー、そしてまた、急加速…男は運転席にあって、まるで、馬の曲乗りをでもしているみたいな体(てい)だ。
喫茶店に着くと、ボーイに名前を訊かれる。「そう」と男が言うと、三階の専用の個室に案内された。男の期待は裏切られ、女は独りではなく、いま一人の男と一緒にいた。「それでは…」とか「それでは、また、お電話を…」とか、いま一人の男が言っている。部屋には、黒い革張りの長椅子や肘掛け椅子とテーブルや数多くの観葉植物が置かれている。鉢に立っている名札には、大鉢で、パキラ、アラレヤ、ドラセナ・コンシンナ、それに、中鉢では、クロトン、カラテア、ストロマンテとなっている。壁には数枚額が掛かっている。ヒンドゥー教の石窟寺院やそこにある神像の写真みたいだ。『トリムールティー像 エレファンタ石窟寺院奧殿本尊』『パールバティー女神 エレファンタ石窟寺院奧殿前室浮彫』『宝輪 コナラクのスールヤ祠堂前殿基部の浮彫』『カンダリヤー・マハーデーヴァ寺院』…
「免許証を手掛かりに…」と女は言っている。そしてしばらくの間、小さく柔らかく声を立てて笑っている。なぜそう女が、にこにこ、にこやいでいるのか、男には理解できない。しかし、上機嫌の女を、輝くばかりの美女を、ほかに誰も居ない部屋の中で見つめることができるということは、激しい苦しみであると同時に、この上もない心地よさでもあった。
「…社の者に、あなたのことを、ちょっと、調べさせました」女は、また、小さく笑った。「変わっていますのねえ…珍しい方ですわねえ…」女が部下の者に調査させた、男に関するメモの一節は、大略、以下のごとくだったらしい。
「独身…無職…《一体、男は、時間をどう過ごしているのか。退屈じゃないのか。まるで仕事無しで…どんな金持ちでも、四六時中、働く。きっと働かないことに極度の不安を感じるからなのだろう。働かないことに不安を感じない者など一人もいない。働かない者は尋常ではなく、異常であり…そうではないのか…》…資産**億、主として有価証券、それに山林《すべて土地成金の一人息子として相続したもの》…教育は一応一流《一応、というのは、実のところは、分らない。大学をただ卒業したと言っても、ある種の面においては、特に、品性の点においては、極めて劣等、かつ異常なものが皆無ではない》…目下のところ、艶聞、醜聞、一切なし。かつてのことは不明。《これは調査機関の探偵たちのいうことだから百パーセントは信用できない。ヒドイ場合には、直接、当の本人からコメントをもらってデタラメを作文する探偵がいるくらいだからだ》」女の部下が、女にした報告は、大略、以上の様なものだったらしい。
ここで女の顔から微笑みが消え、女は言った。「免許証もっと大切にしなければ…わたしのクルマのこと、もういいから。…忙しいので、それでは、これで、ね」
女は、免許証を男に返した。白くきらめく長い女の指が…爪のマニキュアの銀色が…
エンドレスに流れ続けるテープからは、『悲惨な戦争』が聞こえている。女性の声が、「No,my love. No.」と歌っている。CDを切ると、自動的にラジオに変わり、株式市況で「イタガラ、****円、**円安…」と言った具合で、「総じて売り一色、小甘い程度ではない」らしい。いま、岸辺はハーバーらしく、遠目にはクルーザー級のヨットやモーターボートが湾内をびっしり埋め尽くしているのが眺められ、こちらへと登ってくる陸(おか)の上にも、台車の上に乗せられた流線型の船体が、次から次から、現れてきては、後へと流れ去る。リゾート地帯特有の傾向で、往き交うクルマは外車の比率が異常に高い。
「あなた大変な女にぶっかっていますよ」〈センセイ〉が電話で言っている。「もうこれは非常なことです」一体、何のことだか男には、さっぱり、分らない。「あの女のこと調べてみましたが、かなり手強(てごわ)い、と言うか、もうほとんど完全に強力な…パワフルな…トップレディって言うのか、なんて言うのか、医者のくせに医者にならず、つまり大学は医者の大学、医学部か、医学部を、それも、外科、外科…信じられない…出ておきながら、医者にならず、…不自由ならしい、医者は自由業だけれど、不自由ならしい。つまり、時間を縛られ、また、病人相手にあまりにも責任が重過ぎる、と女は考えているらしい。つまり、裏を返せば、かなりズボラな女と言える…もちろん、よく言えば、自由な女、だ。…社会性のない、自己中心的な…そこで何か、経営、つまり商売、輸入会社か、絵画関係の、美術…しかも、その一方で、趣味で、どこかの大学で講師をやり、インド美術…なかでも、特に、ヒンズー教寺院の石窟レリーフか…何かに特に興味があるらしい。要するに、それを大学では講じているらしい。しかも一番いけないのが、大変な、異常なまでの、美女ときている。Face & Body において、極度に…もう一目見ただけで、ただでは捨てて置けない衝動に、どうかしなければいけないという運命みたいなものの暗示に…何がどうなろうとも、もう知らない、つまり命懸けででも…気狂い…この女のために人生を狂わされた男は大学生時代から、何百人と束になって、数知れないらしい…勿論、狂う方が勝手に独りで狂っているだけなのだから、一切の責任は男達にあり、極めて迷惑なのは女の方に決まっているのだろうけれど…彼女は人目の多いところには近寄らないらしい。それは恐ろしい電気メスのような我を忘れた男達の視線に次から次と連続的に身をさいなまれているようなものだからであるらしい。アイクチのような視線が、おびただしく、刹那刹那、すれ違いざま、路上で犯しにくるのだ。美女の憂鬱どころの騒ぎじゃない。美女の悲劇だ。からだが目立ち、自然と挑発的な上に、顔がまた非常に悩ましいまでに艶(あで)やかな…ということは、心もまた、あるいは、大変な、好色女で…」
「もう結構、センセイ、わかりました。しかし、調査と言っても、それらは、ブリキみたいに平板な、誤った伝聞記事…調査会社社員の、一定時間内における一定の、つまりノルマのために、あえて作られた単調無能なブリキ作文にしかすぎない。ホラだ、ズボラなダボラだ。それにひきかえ、おれはすでに彼女と衝突しており、…事故か…衝突を通じて、彼女がどんな脳味噌コンピューターをしているのか、つまり血液コンピューターだな…感じ取っているはずだし…大切なのは、目の色、だ…彼女の目の色の意味…しかしそんなことは、いくら考えたとて分るものではない…われわれは何も理解できない。訳もなく感じ、ただ漂うだけだ…それに、もうすべては落着した。事故は無かったのだ。女神は去られたのだ。一切は、束の間の、幻影か、まぼろしか…ただ、心には、おびただしい、飢渇だけが…心臓の締め付けられるような痛みだけが…悲しみの念、だけが…どうにもならない、莫大な悲嘆が…」
「坊ちゃん、そのようなことは、そのような生々しいことは、心の奥に押し込めて、蓋をして…押さえつけられまして、抑圧に抑圧を重ね…決して口外など…それにしても、もしそれが事実なら…儲かると言うか、損せずに済むと言うか…慰謝料、修理費の点、よかった、よかった…何もかも、失われること無く、無傷でよかった。無事円満解決。これほどよいことが…」
暗闇に、ヘッドライトの光芒の中に、白く、雪が吹きつける。CDは『沈黙の音』『花はどこへ行ったの』『風に吹かれて』と続き『トルコ風ブルーロンド』『テイク・ファイブ』タンゴで『夜のタンゴ』『オレ・グァパ』ときて、ガーシュインで『ラプソディ・イン・ブルー』『パリのアメリカ人』…時は、エンドレスにCDから流れる音楽によって刻まれているみたいだ。時刻は、すでに、完全に真夜中を過ぎ、おそらく、丑の刻、丑三つ時頃、だろう。
湖周道路には、この辺りまで来れば、すでに人家は無く、一切の建物も無く、車影も無く、いま、闇と雪と孤独だけが…雪はフロントグラスに、暗闇の奥から、次から次から、盲滅法に、永遠の狂気みたいに、ぶち当たって来る。左手は、闇の奥に、湖面だろう。右手は、同じく、闇の奥で、葦の生い茂る、湿地、沼、荒れ地…ときに河口、ときに水門…湖周道路は、いま、丑の刻、人気(ひとけ)も無く、光も無く、無際限の闇と、無際限の孤独と…スピーカーはガンガンと耳をつんざくばかりの音を繰り返し…フロントグラスには、群れなし狂う雪片が…車は闇に突き刺さり…
路面は、いま、ヘッドライトに照らされて、艶やかに黒い。それは、いくらぶっ飛ばしても終わりが来ない。夜の、闇の中の、黒く濡れた、アスファルトの、直線の、起伏もない…車の左右では、事物が、猛烈なスピードで、きっと、飛び去っていっているのだろう。それは、左手は、湖面であり、右手は、荒地、葦原、沼地…だろう。
車に、遠心力が…カーブだ…左側にふくれようとする…厭な気分だ。ライトに照らし出された前景は、物凄いスピードで左に流れて行く。一体何が見えているのか定かでない。きっと、藪、雑木林、下生えの茂み、といった類(たぐい)なのだろう。道は昇っている。カーブは連続的なS字だ。湖面に、またも、岬でもが突出しているのだろうか。きっと、地形は、そんな具合なのだろう。やがて路は下りに、平地の直線となり、またも、沼、荒地、葦原(よしはら、あしはら?悪し原?)と続くのだろうか、どうなのか…
仕方なく、脇道に入り、男は車を止める。ドアを開くと、冷気が薄着の身にしみる。雪は、後から後から舞い落ちてくる。雪片は、ここでは大きく見え、牡丹雪だろう、雪はすぐに溶け、髪の毛を濡らす。巨大な、無限と連結した闇の中、ただ、ヘッドライトの光の筒の中だけに、へら雪が後から後から舞い落ちる。
男は、やがて、いま立っている前方は湖面だろう、という朧な予見みたいなものを心にもって、無謀に、前へ、暗闇の中へと進んで行く。すると、背筋がぞっとする。どうやら、一つならず、二つならず、古びた墓石が…よく見ると、なんと、墓石だらけである。ここはもしかすれば、すでに捨てられてしまった、昔の墓場みたいなところなのか…よりによって、また。…信じられないことだ。男は、今度は、反対側を…まさか、と願いつつ、恐る恐る闇の中を覗いてみる。しかし、やはりこちらも…しかも、こちら側は、湖面側よりも、もっとおびただしい数の、ほとんど闇の奥へと、いま、無限につながっているようにさえ見える古い古い墓石が…完全な、古い墓場のど真ん中に、男は…いま、丑の刻、舞い散る雪の中で…
「墓場へ、墓場の中へ…墓場で、だ…よくよく、だ」男は思う。「真夜中過ぎに、だ。暗闇の、見捨てられた、古い古い墓石の群れの中で、だ。雪は、後から後から舞い落ちてきて、だ。…おれは一体どういう運をしているのだろう。偶然迷い込んだとはいえ、どうもこの種のものが付き纏う」男の頭に、この時、車で!、だ、すぐにも脱出!という思いがよぎる。しかし、まさにその刹那、遠くに、一条の光が…光の揺れが…その光は、見る見る、こちらに近づいて来て…車のようだ。車のヘッドライトみたいだ。これはいけない。ただ事ではあるまい。時刻が時刻だけに、何か犯罪じみた。どうにもならない不自由に巻き込まれ…犯罪は、うるさいぞ。何しろ強制的だからな。自由の真反対だ。時間を、完全に、奪われてしまう。…男は、一瞬、墓場の墓石の群れの中へ逃げ込み、隠れようかと思う。しかし、車を、そこに残したままでは、かえって不自然だ。遅すぎる。すでに捕らえられている。厭な思いで、男は両のこめかみの辺りに、ヒヤーと痺れみたいなものが走るのを感じる。男は、いまでは、近づく車のヘッドライトを真っ正面から身に浴び、まばゆい光にさらされ、棒立ちしている。諦めて、すっかり観念したのだろうか、どうなのか…
ヘッドライトが消され、車は止まり、エンジンが切られる。男の車のフォグライトの淡い光の中に、舞い散る濃い雪の群れの奥に、人影が、コツコツとリズミカルな足音が、…両の肩に黒い毛皮のコートを引っ掛けた、凛々(りり)しくて高貴な、素敵なあの女の姿が…
「どうしたんです?」
「どうもしないわよ」女はほほ笑んでいる。
「人気(ひとけ)もなくて、寂しくて、まるで、荒涼とした、地の果てみたいな、ここで…」
「嫌いなの?」
「いや、嫌いでも好きでもないけれど、ちょっと怖かった…濡れるといけないから…雪…車に…」
「あたしは時々ぶっ飛ばすわよ。真夜中、頭が冴えた時…」
湖面が見てみたい、と言って、女は先になって湖側の墓場の方へ、歩み始めようとしていた。しかし、すぐに立ち止まると、男の手を、ぎゅっと、握りしめてしまった。
「親しくなりたいの」女は言った。
男には、信じられないことだった。男は一瞬とまどった。しかも躊躇(ためら)いは許されないようにも思われた。男の脳味噌コンピューターは一瞬のうちに気違いみたいにフル回転した。多くの、数知れない演算が刹那のうちに行われた。女が、おおよそ、どんな罠に、二人して掛かろうとしているのか、見当がつかないでもなかったが、突然、選択を迫られると、幾分、恐ろしいことのように思えた。新しい口づけをする度に、どうしても、いままでの自分では居られなくなるだろうし、否応無く未知の世界に歩み入らねばならない不安や苦悩や、時には、恐怖すらが待ち受けているだろうし…新しい口づけには、恐怖が…それでも男は女に口づけせざるを得ないだろう…それは、とろけるような、不自然な味の全然しない、違和感の無い完全に許し切った、柔らかい、ふっくらとしてふくよかな、夢の中でのように軽やかな、べっとりとして甘美な、一度その味を覚えてしまったら二度と後戻りすることができないような、天国で居るみたいな…その口づけは、まさに成熟し切ろうとしている女の自然から湧き出る、一切のためらいの無い…それはきっと、いま丑三つ時、闇へととろけ去る数知れない墓石の群れの中…しかし一方冷徹なものでもあった。女の毛皮のコートのお陰で、男は女を、何か抱きしめにくく、抱きしめ切れず、抱きしめても抱きしめても、その分、毛皮が反発し、長くて腰の強い毛皮の毛がつっぱっているみたいで、まるで女の体には、いつまでたっても到達できないみたいな…しかし、女の顔は、火照っていて熱く、吐く息も熱く、それは闇の奥から、いま舞い落ちてくる白い雪を溶かし、男の顔に心地よい熱を…女の脚から力が抜けていくのか、その分、いま男の腕に重みが増して来たみたいで…
雪は容赦なく舞い狂い、女の頬を打ち、髪の毛を濡らす。夜の闇は深く、時は停止してしまったみたいに、まるで時は…そして、時は…
しかし、やはりそれでも時は過ぎ、西の空の雲は切れ、星々は輝き…プレアデス星団が、ヒアデス星団が…牡牛、オリオン…ヴェテルギウス、シリウス、プロキオン…懐かしい冬の空の星々が…しかし、瞬く間に、またも、いったん蹴散らされた雲は逆巻き群がり連なり、厚く厚くとろけ合い、闇が、分厚い闇が、またしても雪片が… (続く)
(立ち読み おわり)
(他に、5篇、含む)
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