囚われて
杏 土呂夢(あん どろむ)
いまは、正午前なのか、それとも、すでにもう正午を過ぎてしまっているのか…そしてまた、外は晴れているのか、それとも、晴れてはいないのか…〈あなた〉には、一向に、わからない。
窓には、多分、二重にカーテンが閉じられているのだろう。カーテンの縁の部分から、漏れ入る光線の具合から判断してみたくもなるのだが、その光量は極めて少ない。皆無、と言ってもいいくらいだ。…カーテンが立派すぎる。上部には横に飾り布が付いていて、光を完全に遮断…全体にカーテンは窓枠よりは大き目で…だから、漏れ入る光は、ほとんど絶無に近く…もしかすれば、窓自体がすっかり偽りの…だから、光らしきものも、実は、すべてが、人工の…かもしれない。
掃除機のモーター音が、いま、鈍く、〈あなた〉には、聞こえている。肘掛け椅子の置いてある、そして、バスルームへも通じる、隣の続き部屋の、も一つ向こう側の部屋あたりを、メイドが掃除しているのだろう。仮にそうだとすると、通常のチェックアウトの時間は、もう過ぎ去ってしまっているに違いない。こういったホテルのことだから、もしかすれば、正午もまた、すでに完全に過ぎ去ってしまっているのだろうか、どうなのか。
急に、いま、〈あなた〉には、不安の念が…。もしかすると、メイドに覗かれる、というよりも、メイドに、突然、見下(みくだ)される、のではなかろうか、という不安である。続き部屋との間には、ドアも無いことだし、…アーチ型に、壁の一角が繰り抜かれているだけで…だから、メイドは、当然、ノックのしようもなく、…したがって、すたすたと入って来て、いきなりベッドのカーテンを、バサッ、と、やりかねない。もし、そうなれば…〈あなた〉の姿を見て、きっとメイドは、「キャッ!」とか「ヒャッ!」とか…中には「ウヒャッ!」などと叫ぶメイドがいるのだろうか、どうなのか…。
カーテンを開かれ、見下(みくだ)されるだけでも、〈あなた〉は、死にたくなるほど辛いだろうに…その上に、背後から、「キャッ!」とか「ヒャッ!」とか「ウヒャッ!」などと叫ばれると、今度は、その叫び声からくる恐怖の念で身が凍り、一瞬心臓発作でも誘発されて死んでしまうかも知れない。…メイドが来るであろう方へ、前もって顔を向けておく…つまり、その際には、顔と顔が直面することになるのだが…(身構えておく)…しかし、それには、体全体をベッドの上で、ドカッ、と、反転させねばならないだろう…目下の、〈あなた〉のその体勢では、反転は、おそらく、不可能だろう…仮に、出来たとしても、そんなことをすれば、ベッドのスプリングは大きく軋むことだろうし…軋むなどと言った程度では全然なくて、完全に異様な膨大なスプリング音が…そこで、不審に思ったメイドが近づいてきて、即、ベッドのカーテンを、バサッ、だ…今度は正面からだ、つまり、直面、だ…直面の方が、ずっと怖いかも知れない。カーテンが開かれたとたんに、見知らぬ人間の視線に、その身を晒すこととなるのだから。しかし、それよりも、そちらを見た相手の方が、きっと、もっと驚いて…実際、…どの感嘆詞を選ぶかは、メイドの性格にもよるのだろう…というか、逆に、どの感嘆詞を選ぶかによって、そのメイドの性格が定まるのかも知れないのだけれど…普通は咄嗟の場合、「キャッ!」とか「ヒヤッ!」とかだろう。「ウヒャッ!」などと言われれば…それは、きっと、化け物だ…怖くて、〈あなた〉の方がもたないだろう…
何の配慮もなしで、(…疲れ切って、しかも、そのような状態で、まどろんでいた〈あなた〉を捨てたままで)〈彼女〉が出て行ってしまった、などということは、ほとんど考えられない。(時に粗暴に、時にまた、乱暴に、まれに、狂暴に、〈彼女〉は…。だけど本当は〈彼女〉は聡明そのものなのだ。思慮深い女なのだ…と〈あなた〉は思っているかも知れない…〈あなた〉の知力などでは、到底、〈彼女〉の知力は測り知れない…及びも付かないことだろう…)したがって、外出の際、〈あなた〉の身が人目に晒されるようなことがないように、きっと〈彼女〉は、フロントでも、部屋に残されている〈あなた〉のことは配慮され、告げられているに違いない。そして、それ故に、フロントはメイドに、肘掛け椅子の置いてある、そして、バスルームへも通じる、隣の続き部屋の、も一つ外側の部屋を掃除するのはよいが、それより内側は、掃除せずに(ベッドメイキングも一切せずに)捨てて置くように、とか何とか注意して…(しかし、そう物事、論理的に、理路整然と、一分の隙も無く、〈あなた〉に都合のよいように、つまり、バッチシ、に、行くものなのだろうか、どうなのか…どこかで一つヘマが起こると、即座に、カーテン、ばさっ、だ。それに、フロント、フロント、といったところで、この種のホテルでは、フロントなど、まるで有って無きがごとし、の場合などもあって…有名無実…何の責任も…なのだから…当てになどは到底…)
〈あなた〉は、平気といえば、平気なのだ、何も…しかし、〈あなた〉が恐れているのは、〈あなた〉を見たものが、不意を突かれて恐怖の念に襲われ…その際に、〈あなた〉の背後で、〈あなた〉の見えないところで発せられるであろう悲鳴(「キャッ!」ないしは「ヒヤッ!」極めてまれに「ウヒャッ!」…)この悲鳴を耳にすること…この悲鳴を耳にするのが…この悲鳴をもし耳にするようなことになれば、〈あなた〉の心臓はきっと、ギュウッ、と痛むに違いない。〈あなた〉は、その一瞬の心臓の痛みが、すでに今から、幾分かは感じ取れるような気がしているのかも知れない。確率的に言って、十中八九、メイドは、他の部屋同様、この部屋は無人だ、と思い込んでいるように〈あなた〉には思える。それだけに、極めて危険が…だから、〈あなた〉としては、たとえば、咳払いを一発かますとか(この際、それは全く不可能だが…)そうすることによって〈あなた〉の存在を知らしめる…つまり、何らかの方法…しかし、鈍いとはいえ、掃除機のモーター音がしているのだ。そこへもっていって、離れたところからのささやかな一発…メイドが耳にしている音は、そんな軟弱な咳払いの一発音などでは、到底…だから、そこから発して、いま、メイドに気付かれるには、よっぽどの大声…したがって、つまり、叫び声…しかし、そんなことをすれば、そのこと自体が…異様に…完全な驚愕を…驚愕の念を…驚愕の念を惹起せしめるに足り得る…だから…しかも、もともと、目下の場合、咳払いなどという仮定は、ほとんど百パーセント不可能だろう…なぜなら、つまり、〈あなた〉の口には猿轡が…
〈彼女〉はきっと、朝食(兼昼食)をとりに行ったのだろう…勿論、朝の散歩も兼ねて…見知らぬ街を…〈彼女〉のことだから、メニューは、黒ビールにタン・シチュー、または、黒ビールに牡蠣フライ…ほかに、果物とか野菜とか(〈あなた〉の極度に嫌いなもの)を、ごちゃごちゃと…腹の空き具合(昨夜以来の〈彼女〉の消費した知的、ないしは、肉体的エネルギー)からすれば、きっとその両方、タン・シチューと牡蠣フライ…黒ビールに関しては(瓶詰めの小瓶か、それとも、樽からのジョッキか)、それは〈彼女〉の立ち寄ったレストランによりけりなのだろうけれど…黒ビールの量に関しては…〈彼女〉は、まずアルコールに関しては、底なし、と言ってもいいくらいの酒豪なのだが、自制心が極めて強いので、いまのこの、おおよその、時刻くらいなら(…時刻は、しかとは、分らないのだけれども)、しかも、いま、〈彼女〉は、間違いなく、心身共に快適さの頂点にあるはずだから、ほんの少し、つまり、瓶詰めを置いているレストランでなら、小瓶二、三本(ライスは食べない)といったところだろう。…それでも、帰ってきて、すぐに狂おしく(身動きの殆どとれない、半ばベッドに埋もれている〈あなた〉の口の)〈あなた〉の唇に乱暴に…その時には、ビールの匂いが、プーン、と匂って…〈あなた〉には、同時に、〈彼女〉の薫りが・・・いつも、どうして、あんなにすばらしく感じられるのだろうか…その時こそ、〈あなた〉は、…一切の苦悩、一切の不可能の想い、すべての悪しき想いから、放たれて…
とは言え、時々、ごく稀にではあるけれど、〈あなた〉は〈彼女〉の〈あなた〉への想いを疑る時がある。しかし、勿論、そのことに関しては、〈彼女〉には内緒にしている。そんなことを、もし〈彼女〉に知られて(〈彼女〉のことだから)あからさまに「愛してなどいないわよ」などと言われれば、(〈彼女〉はきっとそう言うに決まっている…「あなたって、分っていないのね、ほんと」とか)…そうなると、もう一巻の終わりだ、と〈あなた〉は思う。〈あなた〉は目の前が真っ暗になり、どう生きて行ったらいいのか、分らなくなるに違いない。それくらいなら、黙ったままで…黙ってさえいれば、〈彼女〉の方から、「愛してなどいないわよ」とも、「あなたと結婚などできるはず無いじゃないの、馬鹿ね」とも「愛よりも、友情とか親密さの方が上かもしれないわよ、きっと」などといった、〈あなた〉には絶望的とも思える…〈あなた〉は、一度でもいいから、〈彼女〉にやさしい言葉を掛けてもらいたいのだ。本当は、愛の囁きを、〈あなた〉の耳にしてほしく思うのだ。なぜなら、〈あなた〉が愛されたく思っているのは、この世でただ一人〈彼女〉だけなのだから。勿論、自然に、自発的に、胸の奥から込み上げほとばしる本当の言葉として、だ。だけれど…この言葉こそが、初めにして最後だと、〈あなた〉はいつも思っている、つまり、トドメ、みたいなものだ。もしこの言葉がなければ、何億の刻々も、まるで脆弱な、一刻の幻影、にしか過ぎなくなり、それは刹那のうちに、見る見る…やがては崩れ去ってしまい…つまり、何事も無かったも同然、無、となるのだ。…したがって、この際、真に価値あるもの、といえば、言葉、なのだ。いつまでも耳の奥に残るのは、愛の言葉だけなのだ。…ところで、〈彼女〉に〈あなた〉に対する愛の言葉が無いのは、〈彼女〉が、最後、つまり、愛の絶頂と別れ、を、単に、ただただ、望んでいないだけなのだ、という希望的観測も出来なくもないのだが、それは、しかし、何とも何とも、寒くて、冷たくて、凍え死にしはしないかと危惧されるほどに、惨めな惨めな推論ではある、ように〈あなた〉には思えるだろう。はっきり言って、〈あなた〉は〈彼女〉に愛されていない。〈あなた〉は〈彼女〉のお気に入りの道具である。〈あなた〉は〈彼女〉の物である。…〈あなた〉は…
しかし、まあ、このような本質的な問題には触れず、黙ってさえいれば、望みもしなければ、信じたくもないような〈彼女〉の真の言葉を耳にする可能性も…皆無、とまではいかないまでも、その確率は極めて低く…〈彼女〉は、目下、〈あなた〉には、精神的な事柄以外の何かを求めているのかもしれないし、それとも、すべてを満たされて、何も求めてなどはいないのかもしれない。…〈あなた〉と〈彼女〉、即、無関係な、ただ熱いだけの関係。
〈あなた〉にはそれ以外には何もない、〈彼女〉が望むようなものは、何一つ持ち合わせていない。しかも、今の状況では、将来とも…何もかも、駄目だろう…〈あなた〉には、行く手には、唯一つ、死があるだけだろう。確実な想いは、死の想い、だけだ。〈あなた〉自身にとっては、もっとも似つかわしくない死などというものが、往く手に大きく立ちはだかっているというこの事実、このこと自体、一体これは何なのだ。〈あなた〉の心は、そのことでも、痛んでいる。…やがて、そのうちに、〈彼女〉の気も変わって…しかし、〈彼女〉のことだから、あの性分だから、そのようなことは…第一に、〈彼女〉の〈彼〉のこと以来…
〈彼女〉の〈彼〉に関しては、いまだに、どう考えればよいのか、何一つわからない。過ぎ去ってしまったこと、と言えばそれまでだが…〈彼女〉は、〈あなた〉との親密な関係が出来てからは、〈彼〉のことを、なぜか、一切話題にしなくなった…(それ以前には、〈彼〉が、今日は、ヘリコプターに乗って取材に出かけたとか…、あるいは、〈彼〉のT大での卒論は、まだ発禁だった頃のローレンスの《チャタレー夫人の恋人》に関するものだったとか、〈彼〉の最近の若い恋人(真偽の程は、〈あなた〉には、証拠十分、とは言えない)への〈彼女〉の危惧の念とか…いずれも正面から話題にしたものではなく、何かのついでに、〈あなた〉は、つい、漏れ聞いた、といった感じなのだが…)しかし、最近では、一切、耳にしない…勿論、といえば、勿論かも知れない。誰だって、死者については…しかし〈あなた〉などは、まず、死者に対する礼節から、何よりも…しかし、〈彼女〉はその点、そのような〈あなた〉の立場を、頭から馬鹿にするだろう。「関係ないわよ」…。それでも〈あなた〉が、しつっこくしていると、随分と怒ることだろう。謝りなさい、と叫ばれ、最後には、結局、蹴られ、ぶたれ、鞭打たれ…とどのつまりは、いつものように、〈彼女〉の意が充分に満たされ尽くされるまでは…〈あなた〉は、ただただ、なされるがままに…〈あなた〉だとて、想い出したくなど、全然、ないのだ。できることなら、忘れていたい。しかし、〈彼女〉の愛がどうなるかによって、〈あなた〉の幸せ(しあわせ、などという言葉を使うと、また〈彼女〉に馬鹿にされ、叱られるから使うのを中止するかも知れないけれど)〈あなた〉の、快と苦、は大きく左右される事実からすれば、…そしてまた、何よりも〈彼〉(本当は、死者に対する礼節から、…また、〈あなた〉より、ずっと年上でもあったことだし…〈あなた〉は、〈彼〉のことを〈あの人〉、ないしは、時によっては、〈あの方〉とさえ呼びたいくらいなのだが、そんなことをすれば、また、〈彼女〉に、滅茶苦茶に…。「それは誤っている」と、きっと、〈彼女〉は言うことだろう。「死者死者って、頭っから馬鹿恐れするけれども、そんな必要など全くない。死者も生者も似たようなものよ。死者といえども全てが全て、かっては生臭い生者だったのだし…早くも人々は、死者が生きていた時に何をしたかを忘れようとしているのだ…また、生者といえども、どの一人も、やがては、死者となることを免れ得ないのだから…馬鹿げたことよ…ことさらに死者を特別扱いして持ち上げ甘やかせることは、欺瞞的でもあり、滑稽でもあり、…彼らを恐れたり…彼らを畏怖したり…神秘的なものは何もない。だからと言って、訳もなく、鞭打つ必要もなかろうけれど、さりとて、祭り上げる必要など、一切ない。…死者とは、彼らが生きていたときの実人生の諸経験の単なる総体にしか過ぎないのだから、別段…事実にのっとれば、人間早晩、似たり寄ったりで…大切なのは…」
〈あなた〉は別の事柄でも、何か、すっきりしないことが起きかけているかも知れない。それは、夏過ごした海辺の岬の村での出来事だが、宿泊所の十六歳の娘と恋をしてしまっているだろう。激烈な恋で、一瞬のうちに、うぶな娘の心に火を点け、めらめらに燃え上がらせたにもかかわらず、突然、夏の終わりと共に、〈あなた〉はK市へと去ってしまっている。しかも、K市では、そのまま〈彼女〉と出会ってしまうのだ。〈娘〉は高校生なので、〈あなた〉は、いますぐ、結婚したいといったのだが、卒業まであと二年足らずだから待ってくれと言われたのだ。すると、〈あなた〉は、何も言わず、次の日を待たず、その日の夜、黙って、自分の手漕ぎのボートで、夜光虫に輝く入江…夜毎ボートで近くの無人島まで〈娘〉と舟遊びした入江…を漕ぎ出し、次いで、四、五時間かかって、流れの速い真夜中の海を一つ漕ぎ切って、〈岬の夏の娘〉のもとを去ってしまった。衝撃で、〈娘〉は、いま、命からがらで生きている、ということを、〈あなた〉は、全然、何も知らないに違いない。
〈彼女〉、〈あなた〉、〈娘〉…〈あなた〉の心は、この三者の相関のうちに…そして、〈彼女〉は〈彼〉、〈彼女〉、〈あなた〉の三者の相関のうちに…そして、また、〈彼〉は、〈彼女〉、〈彼〉〈彼の女〉の三者の相関の内に…いま、〈彼の女〉は、〈あなた〉には、一見、何の関係もないように見えるのだが、〈彼〉が〈彼の女〉に浮気したばっかりに、あるいは、真偽の程は知る由もないけれど、その腹いせに、〈彼女〉が〈あなた〉を誘惑し、そんな事情とは一切知らず、誘惑された〈あなた〉は心から〈彼女〉を愛してしまい、その結果、あの可愛い〈娘〉を…〈あなた〉の幸福であり、〈あなた〉の正常であり、〈あなた〉の死ではなく生であり、〈あなた〉の未来そのものだった〈娘〉を、なんと〈あなた〉は捨ててしまうような羽目に陥ってしまったのだから…。何ということだろう。何という幸運を、薄情にも、〈あなた〉は…幸福とは、〈あなた〉と〈娘〉だったのだ…いまからでも、もちろん、〈あなた〉と〈娘〉になれる。しかし、それは、もはや、欺瞞というものだろう。それは困る…したがって、二度と、幸福を手にする資格など、〈あなた〉には…このような事実にのっとれば、〈彼の女〉もまた、〈あなた〉の快と苦に、つまり、〈あなた〉の…関係ないどころか、むしろ、〈あなた〉の不幸の第一原因とさえ…〈彼〉が〈彼女〉を充分に愛していさえすれば、…浮気などしなければ…浮気などするのは馬鹿な人間に決まっている。いくら名門の血を引いていようが、いくら立派な大学を出て一流企業に勤めていようが、いくら背の高い一目見ただけで震いがくるほど渋みのあるハンサムな男であろうが、なかろうが、浮気などする権利はない。浮気とは、欺瞞であり、侵害であり、侮辱、差別…要するに、はっきりとすべきだ、きっぱりと、堂々と、大切なことをいい加減にするのは馬鹿のすることだ…つまり、〈彼女〉に理由を言い〈彼女〉を納得させ、つまり、〈彼女〉が納得するまで説得を続けなければならない…なぜなら、大切なのは〈彼〉の説得ではなくて、あくまでも〈彼女〉の納得の方なのだから…しかる後に、〈彼女〉と別れ、いま一人の女、すなはち、〈彼の女〉と…物事きっぱりとしなければ…要するに、何が何でも、きっぱりとするべきなのだ…結婚しているのだから。ところが、〈彼〉は、何もかもひっくるめたままで、ごちゃごちゃに、自分の都合だけで、他の人のことを顧みずに…子供のすることだ。だから、もしそれが事実だとすれば、アホ(ないしは、アボ、アポ)としか言いようがない。少なくとも、思慮あるおとなの人間のすることではない…〈彼〉の浮気、〈彼女〉の不幸、〈あなた〉の不幸、〈娘〉の不幸…まるで、将棋倒し、だ。何という屈辱だ。何という因果関係だ。〈彼〉こそが第一原因、人々の不幸の元凶…〈彼〉が欲張りさえしなければ、〈彼〉がもっとしっかりとした人間だったら…一国全体、といった様な風潮にすら押し流されない確固とした個性の持ち主なら…〈彼〉と〈彼女〉、〈あなた〉と〈娘〉…別々で、何の関係もなく、したがって、苦悩も不幸も一切なく…もっとも、〈彼女〉に言わせれば、苦しんでいるのは〈あなた〉だけで、誰も、それほど…となるのだが。「〈あなた〉は弱いのよ」…しかし、〈あなた〉には後になって分かったことだが、〈娘〉の苦しみ様といったら…刻々が、まるで命からがらといった有様で…交通事故だって、〈あなた〉のことが、原因らしい。〈娘〉は、歩行中も、苦しんでいたのだ。苦しみに、夢中になっていたのだ。苦しみとは、そう言ったものなのだ。時も場所も選ばない。極めて放恣な仁なのだ。そこへ、タクシー、ポーン、だ。〈娘〉はボンネットの上で失神していたのだ。…〈あなた〉が第一原因ではないにしろ、〈娘〉とすれば、〈あなた〉以外に原因があるわけではない。…〈娘〉の苦悩に関しては、すべて〈あなた〉に原因が。そして、原因の原因が、〈彼女〉の〈あなた〉への誘惑、そのまた原因が〈彼〉の〈彼の女〉への浮気…実際、年上の者は、浮気だらけなのだ、もう。そしてその結果はといえば、結局、年下の者ほど苦しみ…つまり、一番年下の、〈娘〉。ついで〈あなた〉。〈彼女〉、〈彼〉…といった順番なのだが…その順番に…苦しみが…年下の者ほど苦しみ…階層を成す恋の苦悩の…
困ったことは、確かに事実はあるのだ、しっかりと事実は存在する、それは、一時にしろ、〈彼女〉が苦しんだことから、〈あなた〉は事実だと信じている。しかし問題がないでもない。つまり、その事実をしっかりと確認できないということだ。〈あなた〉は〈彼〉の浮気に関しては、すっかり知っているわけではない。〈彼女〉の口を通してしか…疑り深い人間だと、きっと思われるだろうが、自分の体験した事柄ですら、光のあて具合によっては、事実というものが微妙に変化するように見えることがある以上、ましてや、人の口を通して聞いた事柄などということになれば、疑るのが当たり前で、信じて掛かる方が、おかしいのである、と〈あなた〉は思う。だから、この〈彼〉の第一原因がもし無くなると…つまり、〈彼〉の浮気が事実でなかった、となると、今度は、非常に、〈あなた〉の立場が悪くなる…〈彼〉が道半ばで病死したという事実(肝臓病、ウイスキー痛飲が原因だろう)からすれば、確固とした事実のないままでの、死者に対するこのような推測、あるいは憶測、下手すると全くの邪推…〈あなた〉は、いま、恐れている。これは死者に対する完全なる冒涜かも。死者に永遠の霊があるのなら…〈あなた〉は、ただならぬ、悪を…
〈彼〉が病弱ゆえに、〈彼女〉の心にも揺らめきが…そこへ〈あなた〉が…それとなく、誘惑されたとはいえ、〈彼女〉は、すでに、人妻…〈あなた〉もまた、侵害を…しかも、今は離れている(休火山状態)とはいえ、すでに将来を約した〈娘〉、〈夏の岬の娘〉…夜毎、手漕ぎボートで海を渡り、無人島、渚、闇と月光と夜光虫と…それにしても、〈娘〉の唇の肉の味と〈彼女〉の唇の肉の味は、どうしてあんなに違っていたのだろう…年上の女と年下の、まだ十六歳だった〈娘〉の…年齢の差なのだろうか…〈あなた〉の情熱という点では、ほとんど違いはないだろう。〈娘〉は、きっぱりとしていて、綺麗で、魅力的で、情熱的だったが、一方、〈彼女〉は悩ましい飛びっきりの美女で、後にも先にも、〈彼女〉より美しい女性は〈あなた〉は〈あなた〉の人生で、一人も目にしていないだろう。知力では、これはもう、〈彼女〉が、断然、だろう。しかし、知力を恋するわけにもいかないだろう。魅力、これは異質ゆえにむづかしい。それがあるから、惹かれるのだろう。惹かれ方は、両者とも、電撃的だった。強度は…目下の〈あなた〉は認識不能だろう…あまりに〈彼女〉に囚われすぎている、…から、…かも。
しかし、本当に、病者である人の妻を…病者の心の安らぎを乱し…やがて死すべき者の心を乱し…死への更なる加速を…もしそうだったとすれば…勿論、〈あなた〉は〈彼〉が病者であるということすら、(確かに、顔色は、今から思ってみても、見る者が、ゾッ、とする程異様に、すでに極度に悪かったのだが)その時には何も知ってはいなかったのだから、〈彼〉の死後知ったのだ。また、〈あなた〉と〈彼女〉が知り合ったのは、〈彼〉の病状悪化以前のことであり…だから、〈彼〉が病気に罹っていたなどということは、〈あなた〉は、少しも…それにしても…いくら、それとなく、〈彼女〉に誘惑されたとはいえ、…しかもこの誘惑も、どうやら〈あなた〉の主観的色彩が濃く…〈彼女〉は、逆に、〈あなた〉が突然、突発的に、キスしてしまっていた、と言っている…〈彼女〉の〈あなた〉に対する目の色のことなど全然…〈彼〉が留守中の〈彼女〉の部屋でのことだったが…ま、自分の目の色のことなど、自分で認識することは、何人(なんぴと)にとっても不可能なことだろうから…しかし、その時に、心に感じたことを覚えていそうなものだと、〈あなた〉には思えるかもしれないのだが…その人の、その時の、その想いが目に表れ、他人(ひと)には、それが「目の色」となると思うのだが…しかし、明々白々、と誰にも思える事柄ですらが、実は、事実ではなかった、といったことが間々ある以上…ましてや、色恋ごとなどという、もともと、微妙な事柄にまつわる些細なことを根拠に推論するなどということは…ほとんど、不可能に近い…したがって、最終的には、〈彼女〉のものの考え方は、やはり、それなりに、確固としているように思われてくる。〈あなた〉のように、グラグラしてはいないみたいだ。使い物に、なるのだ。つまり、死者も生者も同等だ。善悪には、あまりには、拘束され過ぎない。欲しい物は何でも取って食う。思い煩わない。推論などという生温(なまぬる)っこいものには、初めから手を出さない。〈あなた〉とは、したがって、〈彼女〉は、ほとんど真反対なのだ、考え方が。ということは、〈あなた〉の考えは、あまり使い物にならない。つまり、〈あなた〉のような考え方で生きていこうとすると、すこぶる生きにくい。…生きにくい、とは何か。即、死にやすい…
死体の煩わしさ…これさえなければ、死も…と〈あなた〉は思う。死後、死体を自分の手で、どうにかする…これが理想だ。つまり、自分の死体を他人(ひと)の手に委ねたくない。…そのまま、土中に埋葬される。これは、怖い。真っ暗な土の中だもの。ぐるりびっしり真っ黒な土だ。永遠に。こんなことは、堪ったものでない。許せない。…他人(ひと)は死後のことだ、と言うかもしれない。死後だからどうだって言うのだろう。その通り、死後だ。しかし死後のことだからこそ、いまが大切なのだ、いまの想いが。死んだ後の事だから、土の中でもどうもないというのだろうか。どうもないだろう、と思っているのは、他ならぬ、今の、ひとの、想い、なのだ。だから、いまの〈あなた〉の想いからすれば…
窯で焼かれる。これも、土中の不潔さと比べると、まだましかもしれないけれど、しかし、周囲の、すぐそこから噴き出してくる炎、焼かれる時の辺りの耐火煉瓦の壁面の窮屈さ、その圧迫感、それに、骨壷に拾われた骨以外の骨は、一体どう処理されているのだろう。残りの〈あなた〉の肉体を形成していた諸元素は。〈あなた〉の灰は一体どこへ。と、思ってみると。…いや、そうではない。それは、土への愛なのだ。人々は、皆、大地へ帰るのだ。すっかり、すっかり、やがては大地へと帰っていくのだ。とも考えられるが、このゴミの山の、地中は、ゴミだらけだ。見えないところは、すべてゴミかと疑りたくなるくらい…そして、海もゴミ、海底には、ヘドロ…見えないところほど、恐ろしい。汚い。つまり、大地と呼ばれるべき、そのような清潔な場所は、一体に、あるのか、どうか。…灰を空へ。勿論、洋上遥か彼方で、太平洋洋上で、灰を空から…これはよい。これこそ、ピッタシだ。それにしても、灰にするとなると、やはり、窯が…それに、第一、自分の手で、自分の灰を…これは、可能とはいえない。不可能というものだ。他人の目、次いで、他人の手…そんなことを任せ切ってはいけない。許してはいけない。それは、永遠にかかわる事だもの。
鈍く、掃除機のモーター音が…一体、いつ、この音は消えるのだろう。この音が、消えない限りは、〈あなた〉の不安は、いつがきても、終わらない。在るような、無いような、妄想共が…。時間の経過にしたがって、反り返ったままの背骨が、幾分、痛みを感じているからかもしれない。…手首と足首にも…しかし、本当のところは、さっきから、時間は少しも流れていないのかもしれない…勿論、少なくとも、数秒くらいは、あるいは、せいぜい、数分くらいは…あのモーター音が、まず、止まらなければならない。そうすれば、それ相当の時間が過ぎ去ったという確固とした事実が…次に〈彼女〉が帰ってきて…その時はまた、それ相応の一定の時の…しかし〈彼女〉の…〈彼女〉が街を歩くと非常に目立つので、きっと往きの通りだけでも…男どもが…勿論、〈彼女〉は、そのようなことには、すでに、いやというほど、慣れきっているので、頭から、しかし、上手に無視して…しかし、それでも、〈彼女〉の気まぐれを満たすに充分な、鹿の子まだらのロース肉のような、いい男が…一緒に食事し、黒ビールにタンシチュウに牡蠣フライの、朝食兼昼食をとりながら、…マカオかモナコかバーデンバーデンの話などをしながら…このような場合、ま、九十九パーセント法螺話なのだが、それがまた受けるのだ。そのような時に、真実など喋ってみろ、それこそ完全なブチ壊しなのだ。それは馬鹿か気違いのすることだ。野暮というものだ。真実など誰も求めてなどいない。真実ほど、厄介で人を不幸にするものはないのだ。どうか目覚めさせないでくれ。どうか再び、現実という事実の世界の苦悩の味を舐めさせないでくれ。このままボケたままにしておいておくれ。…それにひきかえ、この法螺話の軽やかさといったら…ホテル***、**時頃に電話してみて…そうよ、そうなの…
モーター音が聞こえている限りは、危険が…しかし、モーター音が無くなれば、今度は、時間の目途が完全に無くなり、結局は、一切がまるで無みたいに…モーター音が消えたときこそ、むしろ、かえって、いよいよ、メイド、バサッ、の可能性が…だから、どっちもどっち、だ。物事すべてと同様、どっちもどっち、なのだ。要するに、絶えず、危険はあるのだ。…それにしても、〈彼女〉が待ち遠しい。〈彼女〉は、わたしだけと居てほしい、と〈あなた〉は、いま、思う。
〈彼女〉のあの愛らしさ、あの美しさを思えば、気が遠くなる。何がどうなろうと…善悪もへったくれも…これだから、〈あなた〉は、ついに至福の境には至れず…身は永遠の業火に苛まれ…
あれは、CJでのことだっただろう。夜は、すでに、更けていた。プラットホームに人影はなかった。一体、あんな夜更けに、〈あなた〉はどこへ行こうとしていたのだろう。…〈彼女〉に呼び出され、K市のしかるべきホテルへでも…?…最初は、物凄い急ブレーキーの音…同時に、闇の線路上に火花が…ブレーキーの鉄と車輪の鉄が軋んで…同時に、レールの鉄と急ブレーキーをかけられて無理矢理回転を止められてスリップする車輪の鉄が軋んで…鉄と鉄と鉄の軋みだ。膨大な摩擦熱…青白く巨大な花火みたいに、まるで地を這う仕掛花火みたいに灼熱の鉄の火花が…特急電車が全速力で通過しようとしていたのだろう。そこへ、ボーン、だったのだろう。枕木の上に、血痕が一つ。…ずっと離れた、枕木と枕木の間を埋めた石片の上に小さなピンクの肉片が一つ。また、進んで、間隔を置いて、血痕、肉片、肉片…肉片は、いま、光の具合ででもあるのだろうか、汁っぽい、ぴかぴか光った、真っピンクだ。それらは、まるで、〈あなた〉を闇へ、闇の中へと、暗黒へと導く道しるべみたいに…もう止めなければ、もう止めて引き返さなければ、これ以上進んではいけない。それはアクドイことだ。まともな人間のすることではない。そんなことをしてしまったら、二度と幸せには生きていけないだろう。もはや肉片を追ってはいけない。それは悪というものだ。…肉片は、間隔を置いて、ずっと、なおも、月明かりの薄闇の中へと…もはや、プラットホームも尽きてしまい…〈あなた〉はプラットホームから飛び降り、線路沿いに…月光に、レールがまるで白い長い光の棒みたいに輝き…〈あなた〉はなおも進むだろう。すると、短い鉄橋へとさしかかる。鉄橋の下に、小さな光芒が一つ見える。〈あなた〉は鉄橋の下へ、草むらの中へと飛び降りる。
「よくここまで来れましたね」男が言う。「ちょっとこれを握っておいてください」
男は〈あなた〉の方へ懐中電灯を押しつけてくるだろう。〈あなた〉は否応なく、それを握らされる。男は土手を這い上がり、それから、〈あなた〉の頭上の線路脇から、〈あなた〉を足下に見下ろして、言うだろう。
「犬が来るんですよ、犬が。・・・油断をしていると、野犬が、死体の肉を食いちぎりに来る…食いちぎり、食い散らかし…だから、注意深く、極力用心をして、野犬を追っ払い…よく照らしておいてください、死体を。絶対に…死体から目をそらさないようにしてください。すぐ近くから、死体をじっと見つめておいてください。死体だけを…凝視に凝視を重ねて…最前まで生きていた人間というものが、いま如何に在るかというこの事実を、じっくりと、納得できるまで、脳髄の、奥深く、鮮明に…人間の、肉体の、肉の変貌の…」それから、その男は(駅員に違いないと思われるのだが)、大声で、〈あなた〉に「ご苦労さんでっす」と言って、その場を去って行くだろう。
それは、もう、ボロボロだった。血まみれになった死体ではあるが、人間の死体には、到底、見ようにも見ようがなかった。もしこの世に化け物がいるのなら、これこそ、最も恐ろしい化け物の形相だろう、と〈あなた〉には思えたかもしれない。一体に、死体には、もう柔らかい部分、ハラワタとか肺臓とか、要するに内臓の部分、が全部なくなっていた。きっと特急電車の台車の部分に引っかかり、引きずられ、物凄い力で、まず衣服がぼろぼろになって剥ぎ取られ、皮が裂け肉が裂け、火花と共に、おびただしい灼熱して輝く鉄粉と共に、吹き飛ばされ、車体の裏側に貼り付き…一部は枕木や、枕木と枕木の間を埋め尽くしている石片の上に、この上もなく鮮やかなピンクの生肉の小片となり…最後に、まだ残っている死体が、鉄橋の枕木と枕木の間から、落下するまで…
残っているのは、頭部、といっても、目茶目茶に壊れているので、目も鼻も口も…怖い化け物の頭部としか言いようがない…目も鼻も口も、全て、裂けていた。そして、その頭蓋骨の部分に、ボロボロの屑みたいになった腕と脚の部分が縺れ付き…それは、まるで、本来は、頭部から直接四肢が生え出た、胴無しの、化け物が、なにか手足も顔も、絡みついてしまうほど、ぼろぼろに傷ついてしまった、といった体(てい)で…イタチか野鼠が、死体に寄って来たに違いない、乾いた枯れ草が、ガサガサ、と音を立てている…真夜中も過ぎたのだろうか。いま、鉄橋の枕木と枕木の間から、青白く、月の光が降り注ぎ…
改札口から少し離れた薄暗い赤黒い光の中に、一人の娘が立っている。辺りには人影もない。きっと今日という日に、父親をなくしてしまった、その娘だろうか。…自殺かもしれない。そうでないかもしれない。降りようとしている遮断機の下をくぐって、飛び込んだのだろう。勿論、赤色灯が点滅していたし、警報機もガンガン耳元で鳴っていた筈だ。しかし、男は急いでいたのと、まだ特急は来ないだろうという速断から…とすれば、男は事故死だろう。もし、自殺なら、遮断機をくぐるより、むしろプラットホームから飛び降りる方が、容易でもあり確実だろう、と〈あなた〉には思える。死後の死体の状況に関しては、遮断機をくぐって飛び込んだ場合も、プラットホームから飛び降りた場合も、共に、少々の不確実性は伴おうと思われるけれど、結局は、似たり寄ったりの化け物状になるのではなかろうか。…それにしても、一体に、死体の状態が…あまりにも…
〈あなた〉は〈彼女〉に、死後の死体の状態に関して、その美醜について、勿論、一般的の事柄としてなのだが、一度、少し喋り始めたことがある。が、〈彼女〉は全然話題に興味を示さなかった。それどころか、そんなことを思考の対象にすること自体、極めて不潔で、それは生の冒涜であり、〈あなた〉は非常に嫌いだ、といって怒りだしたので、そのことに関しては、以後、〈あなた〉は決して話題にしないようにしている。この点でも、〈彼女〉と〈あなた〉は、どうやら、真反対のようだ。〈あなた〉は、他人の死はともかく、自らの死に関しては、死もまた生の一部分ではないかと思っているので、自らの死後の死体の状態に関しても、これこそ、自身の永遠に関する事柄だ、と思っている。ところが、目下のところ、〈彼女〉は…〈彼女〉には、〈あなた〉の場合と違って、死後も、安心して死体を任せられる多くの人々がいるからなのだろう。その点、〈あなた〉は特殊で、もはや天涯孤独、一族崩壊最後の者、だから、やはり、立場の相違が…かも…一体に、〈あなた〉と〈彼女〉では、一致することといえば何だろう、極めて狭小な部分においてしか…
モーター音が続いている限りは、安全なのかも…と思ったその刹那、いま、モーター音が消えてしまった。心臓の鼓動が、ドキドキと…胸騒ぎがする。いよいよ…しかし、いま、静寂だ。ここで、今こそ、一発咳払いを…勿論、〈あなた〉は、いま、しようと思っても、決して、できない状態なのだけれど…たとえ出来たとしても、いざとなると、喉はからからに渇き切り、咽喉を形成する各種の腺がボッタツキ、縺れ付き…到底、咳払いなど〈あなた〉には無理だろう。出来そうにもない。…咳払いのセの字、ではなくて、エッヘン、のエの音も出てこない。…それに、咳払いさえすれば、百パーセント安全かと言えば、そんなことは何も保障されているわけではない。それは、単なる、主観的な、希望的観測にしか過ぎない。つまり、逆に、平気なメイドなら、咳払いを一発かまされたくらいでは、ひるみもたるみもしないだろう。何も気になどしていないし、完全な、自然体である。一切を、無視して、すたすたとベッドに近づいて来て、いきなり、カーテン、バサッ、だ。…デリカシイもへったくれも、あったもんじゃない。なぜって、客といえども、要するに、客だもの。メイドにとっては、単なる、〈遊び〉客にしか過ぎない。何も特別気を使う必要など…
いま、家具が引きずられているような音が聞こえている。もしかすれば、続き部屋の肘掛け椅子の置かれているあの辺りが、きっと、いま…されているのだろうか、どうなのか。…再び、掃除機のモーター音が…掃除が、いま、またも続行されていることは明らかな、事実だろう。これをしも、疑ることは、いくら〈あなた〉といえども…
考えてみると、どうやら、今日はゼミでの発表当番の日だったような気がしてくる。もしそうなら、無届スッポカシ、教室の人々にむやみと迷惑を掛ける〈あなた〉に、主任教授は、またまた、激怒されていることだろう。〈あなた〉は、大学を無視しようと思ったことなど、全く一度もない。ただただ〈彼女〉との生活に熱中し過ぎ、〈彼女〉に夢中になっているために…もしそうしていないと、〈彼女〉に見捨てられるのでは、という不安を感じるのだ。見捨てられないまでも…要するに、〈彼女〉に全力をあげざるを得ないのだ。…大学は、決して、逃げてはいかない。学問は…しかし〈彼女〉のような美しくて聡明で、かつ、強大な魅力と迫力の持ち主は、百年や二百年の歳月では、ちょっとやそっと、実際、二度と現れて来ないのではないか、と内心〈あなた〉は独り思っているかもしれない。しかし、もともとこれは、極めて主観的な事柄で、いわゆる、ヘタすると、馬鹿につける薬は…という奴で、徹頭徹尾、〈あなた〉の頭がイカレてしまっているのかもしれない。その危険が皆無ではない、と〈あなた〉自身も自ら、懐疑の眼差しでもって、自分自身の感じ方、振る舞い方を監視分析しているかもしれないのだが、目下のところは、そのような危惧すべき異常の兆候は、一応は、ほんの少しも無いように思われている。しかしこの点に関しては、厄介なことが完全に無いわけでもない。つまり、いくら厳密に自らを反省し、監視してみたところで、人間の場合、監視するものと監視されるものが、ある程度は、内部のどこかで直結している以上、したがって、狂っている場合には何もかも、つまり、センサー自体も、すでにやられてしまっている場合が多いのだから…だから、その観測結果たるや、推して知るべし、で…それ故に、いくら自己観測をやってみたところ、結局のところは、恋狂い、即ち、馬鹿につける薬は…なのかもしれない。要するに、大学の方は、もう今では、どうにもなるまい。お留守になってしまっている。きっと完全な失格だろう。お先真っ暗、である。
大学のことに関しては、いろいろな意見を耳にしたことがある。大学へ行って、直接、一人の教授の講義を聴くよりも、うちで(勿論、その教授の著作を一番に読むべきだが)、他の大学の二、三の教授の著作を読む方が、ずっと、効率的で、しかも十倍面白い、といった意見である。しかし、それが本当なのか、どうなのか、両者を共にほとんど経験していない〈あなた〉としては判断のしようがない。第一、著作の無い教授の場合は、どうすればよいのか。また、よし在ったとしても、その著作が三十年も前のものだったりしたら…なぜって、十年一昔、ってよく言われるもの…
大学へは、もう、何年間も、籍だけはずっと置いてあるのだが、あまり…というより、正確には、殆ど、出て行ったことがない。毎年、新年度になり、春休みも明けようかという頃になると、決意も新たに…ところが、五月の陽気が春の終わりを、季節の成熟を、告げ始めるや否や、鋭すぎる感受性というのか、弱すぎる頭、つまり、出来損ないの理性、というのか、気狂いが始まり、再び次の春が深まる頃までは…またまた、なのだ…〈あなた〉の場合、大学のある市自体に、ほとんど、留まっていることができない。海のない市には、どうも落ち着けない。常に、なぜか、イライラしてくる。乗り物に乗るか、…〈あなた〉の所有する乗り物…ボロぐるま一台、中古だが名手の手になる木製の手漕ぎボート(岬で、〈娘〉と四六時中乗りまくった奴)、同じく中古の国産最低馬力のアウトボード付きのモーターボート(せめて、マーキュリーの五十馬力くらいがほしいぜ、まったく)…これらが〈あなた〉の馴染み深い乗り物なのだが…乗り物を操っている時か、はたまた、色情にどっぷり浸かっている時か、それ以外の時は、なぜか、退屈で、気分がいらいらして、最後には、居ても立ってもいられなくなる。自分ではなくなるのだ。…大学での講義なんか聴いていると、もう、まどろっこしくて、いらいらしてきて、心ここあらず、想いはいつしか逸脱し、想像的となり、夢想的となり、妄想的となり、ついには気が狂いそうに苦しくなって、到頭、教室を飛び出してしまう。だから、他の方々に対して失礼千万なこととなる、実際、〈あなた〉が出席すると。…したがって、大学に関しては、これでは、まあ、卒業は殆ど不可能だろうし、就職も、勿論、駄目だろう。母が死に、次いで、父が自殺し、天涯孤独の身、一族崩壊の最後の者、というよりも見方を変えれば、完全な単身自在の身になるや否や、大学も就職もへったくれも、何もかも意味を失ってしまい、つまり、もともと人間の芯みたいなものがお粗末に出来ているのだろう。もしそうでなければ、状況がどうであれ、初志貫徹するであろうに。…人間というものが出来ていない。自由の価値に耐えられない低次の人間。放埓。賭博と色情以外に人生に何の興味をも示し得ない、この上もなく貧弱狭小な人間。…勿論、これらのこと…大学と就職を殆ど諦めかけていることは、〈彼女〉には内緒だ。もし本当のことを言えば、またまた、〈彼女〉は激怒し、足で蹴られるといったくらいのことで済めばまだしも、無視され、軽蔑され、そのまま、きっと最後には、捨てられてしまうだろう。…(ちなみに、〈彼女〉の家系は、作家とか評論家とか大学教授とか医者とかが三、四代に渡って幾人も幾人も輩出している大変な家系であるらしい。〈彼女〉自身は開業している内科医を父に持つ)
最近では、大体において、〈彼女〉とのホテル暮らしがほとんどだから、大学へ行く余裕などなかなか出てこない。本なども一冊も持ち運んでいないことだし、たまに事務的な問題で大学へ顔を出すといっても、それは、あわただしいもので、ホテルのベッドから即タクシー直行即トンボ帰り、といった具合なのだ。こういう生活をしていると、時間の質というか、時間の認識の仕方というか、それが変化し、狂ってしまう。束縛皆無ときているものだから、朝も昼も夜もない。目覚めれば、何時であれ、即、起き、疲れれば、即、眠る。腹が減れば、いつ何時であれ、真夜中であれ、出前を取って好きなものを食う。飲む食う風呂に入る、四六時中自在である。何事も、やりっ放しである。アルコールは、飲み慣れたものなら、なんでもよい、冷蔵庫にしこたま仕込んでいる。ビール、ワイン(モーゼルのあれこれ)、ウォッカ(ストリチナヤ)、ジン(ボンベイ・サファイア)、ラム(ハバナ・クラブ)、といったところか。飲み飽きたら、変えればよい。飲み疲れれば、即眠る。寝覚めのバスは特によい。湯上りの空きっ腹のアルコールはこよなくよい。そして〈彼女〉は生き生きとしていて、髪の毛の先から、足の爪先まで、どこもすべてが魅惑に輝いて美しい。
我慢というものを、一切しない。無理もしない。努力もしない。全くの自然体。自在至極。骨なし生活。下等動物、水母(海月)流。
しかし、〈彼女〉の場合は、この点は少し異論があるかも。〈彼女〉の場合は、目下、仕事が第一だ。常に自らそう言っている。それに、事実、仕事も捗っているみたいだ。寝起きの、つまり、目覚め時の、必ずしも、朝だとは限らないのだけれど、というよりも、朝目覚めるなどということは、単なる偶然にしか過ぎず、何の意味もない。〈彼女〉は一日平均三、四回目覚める。ということは、一日平均三、四回眠るということだが。そして目覚めるとその都度、即、パソコンに向かう。そして、物凄いスピードで、爆発的エネルギーで、〈彼女〉自身は、その時の状態を、もう後から後から、泉のように、歓喜の念を伴って、言葉がほとばしり出てくるという。やはり、血統に狂いはない。天才に違いない。噴出の激しい時には、文字は他人には全然読めない何か無意味な暗号みたいになってしまっている。きっとタイピングが言葉の爆発に追っつかないのだろう。原因は、句読点の乱れと、漢字変換の際の選択拒否…そんなことは、どうだっていいのだ、〈彼女〉は言っている。スピードを落とすと、新たなほとばしりにブレーキーが掛かる。ほとばしりこそが命なのだから。その痕跡だけが残っていれば、…後は、つまり、人の読める文章に直していく作業、そんなものは、極々容易な、機械仕事…要するに、覚醒時、新鮮、明晰、噴出。これが、〈彼女〉の場合、文章の命らしい。
こういう時、つまり、目覚めと共に、迸りに襲われるとき、〈彼女〉は常にパンティで身を締め付けない。意識の爆発には、快適な自由こそがその出発点として必須だからだ、と〈彼女〉は言う。綿シャツ、綿はインド綿(サラサ?)がほとんどだが、上はその綿シャツ…ネグリジェ代わりに使った奴で、下はスッポン(ノー・パンティ)…ホテルの室内では、このスタイルが多い。まれには、もう、上も下も、丸スッポン、の時もあるが…寒さの折には、勿論、スッポンのままに、ガウンを引っ掛けたり、あるいは、タオル地のバスローブをひっかけたり、あるいは、厳寒の折などには、毛皮のコートを…〈あなた〉はたった一度見ただけだが…勿論、袖を通したりはしないで、パッと両肩に引っ掛けただけの…要するに、〈あなた〉は〈彼女〉の下着の状態のことだけを、今は、言っているのだろうけれど…
仕事をしている時の〈彼女〉の横顔は、常よりはまた一段と知的で、神々しいまでに美しく魅惑的に輝いている。不敬にも、〈あなた〉は一度だけ、このような時の〈彼女〉に仕掛けたことがあるが、それはもう、天罰覿面、たちどころに、眼中満天即烈火、といった具合で…眉間に肘鉄をグァツーン、と一発やられたのである。力一杯の容赦しない奴を。今度またまた、似たようなことを仕出かしでもしたら、それはもう、おそらく…では済まないだろう。〈あなた〉はもうコリゴリだ。しかしまた、ここのところは、極めてデリケートなところでもあって、正直言って、いまだに、この辺りのタイミングのツボというか呼吸というか…が解っていない。いいのかな、と思って仕掛けると、駄目だったり、まさかこんなところで、と思っていると、完全に、正解だったり、仕掛け時が四六時中自在であるだけに、うまく〈彼女〉の気分の壷にはまらないことには…とんでもない無粋を仕出かしたこととなり…だからといって、〈彼女〉に任せっ切りにしておくと、今度は、また、ひどく、姫君のご機嫌斜めの秘められた起因になったりして…人を敬愛すということも、なかなかむずかしい、辛抱のいることではある。
以上のようなあんばいだから、一日のうちに幾度も寝覚めがあるということは、〈彼女〉には好都合らしい。電光照明をあかあかと灯せば、真夜中でも、真っ昼間同様意識も覚醒し、また消せば、この種のホテルの部屋は、白昼でも陽光皆無ときている。…そもそも、主な生活の場がこの種のホテルに移れば、時間における、二、三日の誤差くらいは別段珍しくもなんともなく、ひどい場合には、三、四か月も、つまり、季節を一つ丸っぽ実感ないままに過ごしてしまう時がある。それにしても、正確な日付などは、わかったためしがない。〈あなた〉には必要ないのだ。わかってもすぐに忘れる。…それにしても、〈彼女〉は充分仕事がはかどり…〈彼女〉はもともとは、詩人である。しかし、いまでは、さる新聞社専属の、美術評論もやっており、最近では、種々の雑誌社などからも、特に、女性に関する種々雑多なコメント…随分注文が来ているようだ。金も稼いでいるみたいだ。金に関しては、〈あなた〉には想像できないくらいに、〈彼女〉は真剣だ。ホテル代を清算する時などは…最低、一週間から十日くらいは同じ部屋に留まるものだから、前もって交渉して相当割引してもらっているとはいえ、それでも随分金額も嵩み…そんな折は、非常に機嫌が悪い。〈彼女〉は一体に吝嗇なのかもしれない。もし〈あなた〉がお金を持っているのなら、勿論、〈あなた〉は喜んで払うだろう。〈彼女〉のためだもの。しかし〈あなた〉は、すでに無一文なのだ。だから払いたくっても払えない。しかしこの点、〈彼女〉は別な風に考えているみたいだ。つまり、ほんの少しとはいえ、〈あなた〉が〈あなた〉の父の遺産を、気違いみたいに、瞬時に、自分自身のことのみに蕩尽してしまったことが一度だけあるのだが、そのことを〈彼女〉は、いまだに、根に持っているみたいだ。このことに関しては、いまになって思えば、やはり〈あなた〉自身が悪かったのかもしれない、と〈あなた〉は思っている。しかし、もともと、桁違いに〈彼女〉はリッチであり、(働かないでもリッチなのだ。凄い財産をもっているのだろう)それに引き換え、こちらは、プアーもプアー、もうどうにもならない、万人があきれ果てるような、つまり、貧の極、無一文天涯孤独、と来ているのだから、稼ぐとなると、まあ釜が崎で立ちん坊やって、本船での沖仲仕か工事現場で土方でもをやる以外には…つまり、本邦最低の最高苛酷肉体労働…これなのだ。これ以外には…だからたまに、実際一生一度だろう、つまり、パアッ、と華やかに…といった甘い気持ちで蕩尽したのだが…しかし、やはり、今から思えば、少し身勝手が過ぎたのかも。〈彼女〉は、いまだに憤慨している。〈あなた〉を薄情だと決め付けている。非難されても、仕方ないだろう。しかし、それは決して、全部が全部、根っからそうなのではないのであって…と〈あなた〉は思う。
金の使い方に関しては、〈あなた〉のみならず、〈彼女〉にもまた、特異な性向があるようだ。〈彼女〉自身のために使う時は、相当思い切った出費も惜しまないのだが…宝石類、コスチュウム(プレタポルテが主(おも)みたいだが)は、まあ仕方ないとしても、気違い染みているのは靴だ。パンプス。何百足あるのか、分らないらしい。そのくせ、そんな高価な身の回り品は、あまり身に着けていないみたいだ。特に〈あなた〉と一緒の折は、来る日も来る日も、ジーンスタイルが殆どだ。〈あなた〉のために、二人の釣り合いを少しでも保つようにと、〈彼女〉はドレスダウンしてくれているのかも知れないけれど。宝石類は、ごてごてとは、勿論、着けないけれど、一発相当光った奴を、乳房と乳房の谷間辺りに隠しぶら下げて…〈あなた〉は、宝石には全く無知だろうから、価値に関しては、定かでない。しかし、相当な…一度ホテルに予定以上に長居して、ホテル代が支払えなくなったことがある。その時、ソフトデニムのシャツの下に掛けていた大きな輪っかの緑色をした宝石(翡翠?)を質入に持って行かされたことがある。質屋のおやじはその輪っかの大きさに驚いていた。〈あなた〉は翡翠は〈彼女〉に非常に似っかわしいとは思っていないし、その時、たまたま、彼女も着けていただけだろう。〈彼女〉には、もっと耀くものこそが似っかわしい、と〈あなた〉は思っているかもしれない。
コスチュームにしたところ、信じられないほど高価なものを、スパッと買う。しかし〈あなた〉と一緒の折は、そんなものは一度だって身に着けたためしがないのだし、もし〈彼女〉が正装すれば、〈あなた〉などは、もうどうにも場違い、無関係、異人種、月とスッポン、といった感じで、〈彼女〉のそばへは寄れないだろう。〈彼女〉はそこのところをよく知っているので、極力、〈あなた〉と一緒の折は、質素に、粗末に、艶を消し、輝きを捨て…しおらしいものである。しかし、この辺りのことをあまりに考えると、苦しみが湧いてきて気が狂いそうになることもある。〈彼女〉は早晩、二度目の結婚をするかもしれない。というよりも、また新しい恋人が出来て、そのうち結婚…かもしれない。家系、財産、学歴、ハンサムで、〈彼女〉より背が高くて…〈彼女〉は非常に背が高い。〈あなた〉は決して背が低い方ではないのだが、その〈あなた〉よりも、もっと高い…そんな男が現れたら〈彼女〉は、きっと、結婚するだろう。つまり、〈彼女〉の正装に耐えうる男が現れればだ。その点、〈あなた〉の一生は、綿パンで終わることとなるのだろう。〈あなた〉の不幸は、〈彼女〉は〈あなた〉と、こうして、仲良く暮らしておきながらも、結局のところは、〈あなた〉を愛してはいない、と懐疑することである。ここのところは、むずかしい。どうもはっきりしない。徹頭徹尾愛されていないのなら、いくら〈あなた〉だって、そうそう、こうして〈彼女〉に引っ付いてばかりはいないだろうと思われるし、特にベッドだけで愛されている場合、ないしは、ベッドでだけは愛されていると錯覚または誤解している場合は、どうにもこうにも、厄介で、救いようがないみたいだ。「正式に、天下晴れては、愛されていない。しかし…」この「しかし」が怖いのである。都合の悪いことはすべて、この例外条項に入れてしまって考える癖がついてしまうのだから。だから結局、現在位置、が掴みにくく、つまり事実とか真実とかに関する勘が鈍ってしまい、正常かつ健康な如何なる生活も営み辛くなる。ここでも、やはり、恋狂い、という奴が業をするとみられる。ところで、それでは逆に、〈あなた〉は、平時に、つまりベッド以外の時に、〈彼女〉に愛されているのかといえば、完全には愛されているわけではないということだけは、火を見るより明らかなのだ。男と女の間のことは、愛という言葉だけでは律し切れない部分があるのではなかろうか、とも時に思えるのだが、思う思わないはその人の勝手だが、それはやはり事実に反しているのではないかと、〈あなた〉はいぶかしがる。というのも、一般的に言って、「愛」という言葉の実体は了解できるものだし、現に存在するのだし…もし現実にそれが存在しないのなら存在させなければならない。そうでなければ、何のために、この世をうろうろと、うろついているのか、てんで分らなくなってしまう。しかし、ここのところは、極めて重要なだけに、慎重さと同時に、厳密さが…とはいえ、どうも〈あなた〉は、本当のところは愛されていないのでは、という疑念によくさいなまれる。そしてもし愛がないのならば、一切は、やはり、断ち切られるべき…いずれにしても、〈彼女〉としては、〈あなた〉とは、現在の関係より、より以上の関係のことは考えられない、と心に決めているみたいだ。なぜか、その理由は、一体。そんなことは、分らない。年下だからか。そんなことはあるまい。無一文だからか。そんなことはあるまい。〈あなた〉には将来が無いからか。そんなことはあるまい。グータラだからか。そんなこたあるまい…〈彼女〉より背が低いからか。そんなことはあるまい。ボートを漕いで腕の筋肉も肩の筋肉も腹筋も太ももの筋肉もキンキンコリコリに鍛え上げられているからか。そんなこたあるまい。思い当たる理由など、何も無いのである。だから、どうこうする必要もない。〈彼女〉だって、どうにもならない。どうしようもない。二人は、いまは、ただこうあるだけだ。そして、きっと、やがては、〈彼女〉は〈あなた〉以外のより優れた男と結婚する…〈あなた〉も〈彼女〉のこの選択は、おそらく正しいのだろうとは思っている。しかし、〈彼女〉はその後も、一生、〈あなた〉とこの関係を続けたく思っている。その点で、〈あなた〉は完全に理解できなくなる。もし結婚すると、こんないい関係はもう保てなくなる、〈彼女〉はずっと以前にそんな風なことを言ったことがある。そして、〈あなた〉も結婚するのよ、誰かと…、と〈彼女〉は言う。〈あなた〉はここに到って、何がどうなっているのか、何がどうなってほしいのか、てんで分らなくなる。要するに、やけに苦しく、不幸感、絶望感、虚無感に襲われる。勿論、このように、独りホテルの部屋に捨てられて、諸々の、悪の想いに、囚われて…。
実際もう、考えてみると、〈あなた〉には確固とした生活は無理だと思われる。しっかりとした人生を送るのなら、岬の〈娘〉と別れたりはしなかっただろうし…〈娘〉ではなく〈彼女〉を選んだその時点で、諸々の異常が、強引が、貪欲が、そして壊滅が…やがて。しかし論理的帰結だけは、しっかりと、せめて、と思うのだが、いずれにしろ〈娘〉のことは、今まで通りきっぱりと、後戻りなどはできない、決してまた、どんなに苦しくても、してはいけない。また、〈娘〉の将来を〈あなた〉が、いまさら、心配する必要もあるまい。きっと、新しい恋人と出会い、すでに、新しい恋人ができているかもしれない。きっと、出来ているに決まっている。一生待っている、と言ってはいたが、それは、十六歳の娘の言葉で…十六歳の娘の言葉ゆえに、とも思えるが…〈娘〉は〈あなた〉と一緒になりたがったが、〈あなた〉は〈娘〉を幸せにする自信が無かった。〈娘〉の求めているものを〈あなた〉は正確に想像できるが、きっと〈あなた〉はそれを〈娘〉に与えることができないだろう。〈あなた〉は結局、独り、つまり、孤独をのぞんでいるのだろうか…しかし、それなら、突き詰めれば…またまた…どん詰まりは、ヘリコプター、火口、降下、落下、変転、上昇、拡散…といったあの夢想が。心配なのは、それだけだ。はやく、そういった、人生の最後の最後を請け負ってくれる、何か株式会社みたいなものでもが出来てくれる、早くそんな時代になってほしいものだ。それなら、〈あなた〉のようなヘンチクリンな人間でも安心して人生に当たれるというものだが…
単純に考えれば、〈あなた〉は、いま、悦楽の絶頂にあるのかもしれない。〈彼女〉は、耀くばかりに美しいし、それに、申し分なく、奔放に振舞ってもくれる。溢れこぼれる微笑みからして、〈彼女〉もまた、色恋の絶頂にあるのかもしれない。
もし〈彼女〉が帰ってくれば、隣の続き部屋のドアに、クチッと鍵の音がするだろう。すると、〈あなた〉は、いつものように、ここ、ベッドのカーテンの陰で、急に、眠っている振りをするのだろう。そうしている方が、ずっと集中して〈彼女〉のことだけを感じることができるし、〈彼女〉だって、その方を好いている。平気で、思う存分、振舞うことが出来るのだ。
〈彼女〉は、きっと、鈍く口笛を吹いていることだろう。それは今しがた、レストランで、黒ビールを飲みながら聞いたばかりの曲かも知れない。〈砂に消えた涙〉かもしれないし、それとも…いや、それは、きっとアダモで、〈明日は月の上で〉に違いない。一、二度、〈彼女〉は、リフレーンのところを、低く殺した可愛い声で、口ずさむのだろうか。
A demain sur la lune, ア・ドゥマン ス・ラ・ルウナ
〈彼女〉は繰り返し繰り返し、憑かれたように、口ずさむのだろうか…それから再び、また鈍い口笛となり、ついには、もっと鈍い、歯笛…舌先を上歯と下歯の隙間のあたりに持っていって、息を吐きながら、音をゆるく出していくのだが、メロディを正確に吹くことは、もはや、不可能で…歯笛となり…しかし、また、急に憑かれたように、「ア・ドゥマン ス・ラ・ルウナ(明日は、月の上で)ア・ドゥマン ス・ラ・ルウナ(明日は、月の上で)」と口ずさみ、リフレーンに入るのだろうか、どうなのか…そうしながらも、〈彼女〉のことだから、着ていたソフト・デニムのシャツを、そのあたりに脱ぎ捨て…ブラジャーは、〈あなた〉と一緒の折には、常に、着けていない。パンティも、外出の際には、〈あなた〉の口への詰め物にしているので、着けていない…ノーパンティ外出の際は、勿論、スカート着用だが…なぜって、〈彼女〉はその分、留守中の〈あなた〉の〈彼女〉への想いが昂ぶることを心得ているからだろう…ジーパンを脱ぐ時は、すさまじい。まず、尻の部分をまくり出し、しばらくは、もぞもぞやっているのだが、最後は、足先に引っ掛かっている部分を、手を使わずに、力一杯、蹴り脱ぎするものだから、どちらへどれくらい飛んでいくものか、前もっては、見当もつかない…そして、そうしながらも、気分が少しでもよければ、口ずさむ歌にあわせて、弱く小刻みに、何かダンスのステップでもを踏んでいることだろう。壁に繰り抜かれた、アーチ型の、ドアのない…を通って、こちらへ、ベッドルームの方へ、ステップなんかを踏みながら…ルンバ・ステップかチャチャか…〈キサス・キサス〉なんかを口ずさみながら…〈彼女〉はベッドのレースのカーテンに、そっと指を一本引っ掛けて、ベッドの様子、中の様子、つまり、眠ったはずになっている〈あなた〉を…調べるだろう…ずっと不自由にして、わざと捨て置いた、物…まるで捕獲物みたいな、やや、大切な、まるでペットみたいな、〈彼女〉の、物…幾分精密に出来ている、つまり、物よりはやや高級に出来ている、物、あるいは、姫君のお慰みのお道具…ここで〈彼女〉は、眠ったことになってるはずの〈あなた〉の口に、囚われて、いま、半ばベッドに埋もれてしまっているカラカラに乾いた〈あなた〉の口に、はじめはほんの少しずつ、そしてやがては、徐々に熱を帯び、最後には、もうしたいだけ放題に、狂おしく、口づけすることとなるだろう…黒ビールの味がするのをかすかに感じ、やがては圧倒的な、一度嗅いだだけでも、もう病みつきになりそうな、〈彼女〉のあの痺れるような強烈な魅惑の体臭に襲われて…「長い長い間、ありがとう…可哀想に、囚われて、食事もしないで、あなたはあたしのことだけを、あたしのいない間、ずっとずっと考え続けていてくれたのね。まさか他ごとを考えたりはしなかったでしょうね。ただただ、あたしのことだけを…いつもいつも…ずっと…」
しかし、このあたりから、〈彼女〉も、幾分、何が何だか分らなくなってくる…つまり、〈彼女〉の、直情、が始まりかける。それは、〈彼女〉の才能ゆえの結果であり、〈あなた〉は、ただただ寛大さと忍耐をこそ、要求される。直情、といっても、殆どどうってこともない、たわいないものもある。たとえば、口づけとか、平手打ちとか、大通りの、群衆の中での…歩きながら、急に、狂おしく、〈あなた〉の首に片腕を巻きつけてきたかと思うと、そのまま唇に…人々の軽い野次を受ける恥ずかしさと、ごく微量のその野次への嫌悪感、そこへ〈彼女〉の唇のもたらす蕩けるような快感が、じんわりと混じり合い…一方、平手打ちの件に関しては、〈あなた〉が何か無意識のうちにでも、〈彼女〉のもしかすれば自尊心をでも、ほんの少し、傷つけたのだろうか、いきなり、ピシャリ、と全然不自然なところなどない、実に見事な平手打ちを…〈彼女〉は子供の頃から、背が高かったので、つまり、肉体的優位をもって、男の餓鬼大将共をぶん殴って、家来にして、育ってきたらしい。だから〈彼女〉の平手打ちは、ちょっとやそっとの生やさしいものではなくて、極めて強力かつ自然な、平然たる正真正銘の…並み居る人々の眼前で…人々は、まず、〈彼女〉の平手打ちに度胆を抜かれ、そしてそれ以上に、〈あなた〉の無抵抗かつ無反応に驚いたことだろう…それは、当然である。間違ったのは〈あなた〉であり、悪いのは〈あなた〉なのだから。〈彼女〉は、かんかんに怒って、身を翻し、大股の早足で、去って行っている。しかし〈あなた〉は、そこに棒立ちしたまま、なすすべも無く、真っ青な顔色をして、去り行く〈彼女〉を凝視したままで、ただ呆然と、立ち尽くしているだけだ。
これらの特異な現象は、きっと、〈彼女〉の脳の、脳味噌の、かすかな震えから…非常に好調に仕事のはかどった後の一瞬の隙間から、無意識のうちに、突発的に…ちょうど蓄積しすぎたエネルギーを地殻が震動によって、不都合なエネルギーを折々震えでもって、発散するみたいに…勿論それは〈彼女〉の欠陥といえば欠陥だろう。しかし極度に優れた脳髄のほんのたまさかの調整作用、それは自然の息吹であり…〈あなた〉はそれは当然であり、仕方ないことであり、これに耐えることは、〈あなた〉だけに可能な〈彼女〉への理解だと思っている。しかし問題は、平手打ち程度で収まってくれればの話である…〈あなた〉は、いまでは、左の耳の鼓膜が破れてしまっている。音が、ドブンドブン、聞こえる。いつも海底に素潜りしている時のような感じなのだ。手では、指の骨が一本折れて、歪んだまま不自然に繋がっている。医者へ行かず、自分自身だけで治したからだ。二、三日の間というもの昼も夜も痛みに耐え、その間ずっと水で冷やして熱をとるのに大変苦労した。すべて自家製の山勘療法で治したのである。もし、ドタマも、MRIかCTスキャンにでも突っ込んで細部まで逐一診てもらえば…何らかの異常が…かもしれない。しかし〈あなた〉は医者へは行かない。そんなことをして、ほんの少しでも、〈彼女〉の名誉を汚すような過ちを犯す危険に近づきたくないからだ。〈あなた〉は、とことん、〈彼女〉が好きだし、そのような直情は、単なる優れた〈彼女〉の脳の極々微細な必要不可欠の微調整機能だし、〈彼女〉の美と魅力をもってすれば、この〈彼女〉の直情も…ぶつ、蹴る、しばく…次いで、突如、天女のような優しさが訪れ…かと思うと、しかしすぐに…鞭が、足蹴が、殴打が…これらが交ざり続き反復し…ますます強度の…その場では、〈あなた〉だとて、考えもなく、苦し紛れに、「助けて…」と言いたくなる。特に…しかし、冷静に判断すれば、もし本当に〈彼女〉が好きなのならば…何よりも、これは〈彼女〉の息吹きなのだから…
やがて〈彼女〉の囁きが…恥ずかしくて、〈あなた〉には、いつが来ても口にはできないであろうような言葉の数々が…しかし〈彼女〉がそれらを口にすると、不思議にも、なんと可愛く愛らしく魅惑的に聞こえることだろう…〈あなた〉はその魅惑で、もう殺されそうな…気も遠くなり、すっかり狂ってそのまま死んでしまいはしないかと危ぶまれる程に心地よい…この一瞬…〈彼女〉ならではの、この一瞬こそが、これあるが故に、、、幾千刻の苦悩も…
したがって、〈あなた〉には、いま、何も思い煩うことなどないのかもしれない…ただただ、〈彼女〉に身を任せ…
〈彼女〉ゆえに…囚われて、〈あなた〉は、いま、悦楽の絶頂に…いるのかも…ただもし、明日という日さえなければ…
〈あなた〉の苦悩は、死後、死体が残るということだ。自殺後の死体が、いかに多種多様な侮辱を蒙るか、死後だからといって、決して油断をしてはいけない。一体に自殺者は、追い込まれてから、突発的に、否応なく、なりふり構わず、我武者羅に、われを忘れてやるものだから、自殺後の、自分の死体が、どんな取り扱いを受けるのか、人々のどんな視線に晒されるのか、如何なる屈辱的言辞で云々されるのか…そこまで予想していない場合が多すぎるのではないか、あまりにも無防備である。できることなら、〈あなた〉は何かしてあげたいくらいである。まず人目から、野次馬どもの、あのニヤニヤから、好奇の目から、…しかし、その程度のことではなくて、死体自体が、もっともっと酷い辱めを蒙る場合だってあるのだ…そのことを思えば、気分は暗澹たるものとなる…なまじ食人鬼(じきにんき)のお話などは、まだまだ清潔で美しいお話…かも、なのだ、とすら思え…現実には、もっともっと暗く、悪辣で、醜悪陋劣な場合だってあって…だから、無防備では絶対いけない…それは、〈あなた〉には、自殺者の一種のだらしなさ、とさえ思える。やはり、前もって、冷静に、厳密に、暇をみて、折をみて、徹底的に考えておくべきだ…死は、ちょっと見には、素振りも見せず、いつか、どこかで、みたいに鷹揚に見えるのだが、そのくせ、実際には、最も確固としたものとして、抜け目なく、例外なく、刻々と…だから、死は、完全に、いま、ここの、ど真ん中に位置しており、…決定的に、クソ面白クモナイことだ…しかし、手抜きをすると、夥しい屈辱が…何をされるか知れない。少なくとも、死人に口なし、だもの…やはり死は、自分で決するに越したことはあるまい…
適当な火口を(活火山の)選択すること…カメラを一台(まさか安物のインスタントカメラでは無理だろう、それではヘリコプターの操縦士が変に思うことだろう、見破られたりしてはいけない)…だから、ちょっと大き目の…まあ、コケオドシだ、ガラだけでかい、中身は何でもよいのだ…足は、ボロぐるま、海は、ボロ舟、どのみち、すべて乗り捨てなんだから、それっきりだ、相棒どもよ、懐かしきポンコツ共よ。(いらいらの際、幾度、彼らには救ってもらったことか。最低一日五回くらいは、彼らに救ってもらってきた。世話になった。…陸を行き、海を滑り…心地よさを、喜びを…にもかかわらず、〈あなた〉は、時には、腹いせのためか、彼らを酷使し…でも今は、もはや、相棒共よ)悪く思うな。今こそ別れめ、いざさらば、なのだ、から…
ヘリコプターのチャーターの費用と…何よりも、操縦士の心に傷を残さないこと、これが難しいかも知れない…この点〈彼女〉は、殆ど説明無しででも、(話題としては嫌悪するけれども)いざ実行となった日には、〈あなた〉の自由を一切束縛はしないだろう。勿論、一文(存分に愛を込めた奴を、何と言ったって、最後の最後となるんだものな、しかも、この世で一番好きだった人に宛ててだもの、快楽を、あの悦楽を、共に、というか…まあ、相棒というか、兄弟分というか、アネゴか、まあバッチシ、姉御だろう…長々としたものではなくても、しっかりとした奴を)一文〈彼女〉に残すこととなるだろうが…〈彼女〉は、全く充分に、〈あなた〉の行動を納得してくれることだろう(推奨、賛美、とまでは、勿論、いかないまでも…すこぶる冷徹に受け止めてくれる、その点は、安心だ…)問題は、しかし、操縦士だ、直前、しかも、ほとんど眼前で、となるからなあ、飛び降りが、つまり、死が…これはいけないかも、だぞ…操縦士は殺人容疑で、うまくいっても、最低一度は取調べを受けることとなるだろうから…実際には、一度や二度では、到底…これは迷惑を掛けることとなる…自分のことで、他人(ひと)に迷惑だけは、いけない…遺書を要所要所に残しておく…これで操縦士が犯人だという嫌疑だけは、容易に晴らすことが出来るだろうか…しかし、操縦士には、まだまだ、相当、いけない、いわれのない迷惑を、掛け過ぎる、操縦士の心に傷を残さないために文章でもって説得するといっても、これは相当困難な…まったく自信がない…操縦士の人生にほんの少しでも、操縦士自らが望みもしない影響を与えるという、そのよう権利は、〈あなた〉には、完全に無いのだから、持ち合わせていない…第一、徹頭徹尾、ダマシ、だからな…やることが、ちょっと汚い…操縦士は、ただ、火口の写真撮影のためにチャーターされたヘリコプターの…それだけのことだ、ところが、偽カメラマンが、火口上空のヘリコプターから、火口目掛けて、落下する、などいうことは前もって何も知らされていない、しかも、騙されて、操縦士のメリットとなることは鐚一文(びたいちもん)もなく、一方、心に残るであろうデメリットの方は…これはもう計り知れない…(何の罪も無い人の心に、誤解や、不快や、奇怪の念を与える権利は、〈あなた〉には…)こりゃいかんぞ、完全に、愚か者よ…オロカシコでアナカシコ…
ほんの少しだが、いま、空腹感を覚える。〈彼女〉の留守に、こんなことに気をやっているようではいけない。実に実に、ハシタナイことだと思う。…それにしても、またまた、彼女のおみやげは、ヒレカツなのだろうか。確かに、ヒレカツは好物だ。美味しい。アルコールにもよく合う。しかし、たまには、ソーセージなども。国産のものは不味くて食べられないけれど。朝鮮とか中国とか、ドイツ、オーストラリアのものも美味しかった。ニンニクのしっかり効いた奴。輸入禁止になっているのだろうか。生卵なども、一日十個でも食べられるけれど、〈彼女〉はマムシとかスッポン・エキスを買ってくることもあるが、効果の方は、いざ知らず…
操縦士付きヘリコプターを諦めるとなると、自ら操縦する以外に手がなくなるだろう。免許、それに、ヘリ…気の長い話だ。それまで、はたして…もつのかどうか…ヘリは糞ボロを一台、これは容易に手に入るだろう。適度に保険も掛けておき…そのまま突っ込んでも、特定個人に迷惑を掛けるようなことにはなるまい。…免許を取るための費用、アメリカでとる方が、日数はかからないかも。アメリカは、あまり形式ばらないから。規制が緩いというか、自由が多いというか。何しろ、スーパーで、自家用機の組み立てキットを売ってる国だからな。自由ほどいいものはない。…それにしても、相当な費用が…相当長期にわたって、釜が崎、立ちん棒、しんどいだろうな。随分単調かつ不自由な時間を強いられるだろうからな。時間を、存分に、しこたま分捕られるぞ。来る日も来る日も、どうせ、ホンセン、だろう、ギリシャ船籍って、けっこう多い…船底の、粗鋼の、鉄粉の…白色パンツの褐色の鉄錆色へのみるみるの変化が(染め込みだわ、まったく。…からだの他の部分は裸だからいいようなものの。一日一枚は、最低、パーになる。…毎日毎日だから、おびただしい量のパンツが、…あれは、パンツつぶしだ、実際…作業手袋は十倍もとより破損する…)ここまで苦しみに耐えねばならないのなら、いっそのこと、全てを諦めて、つまり、ヘリも、火口も、本当はどうでもよいのでは…ただ、死体を人目に晒さない、死体を焼き、灰にする(勿論、窮屈な焼却炉はいけないし…オープンなもの)灰を、宇宙に向かって拡散できること、かりにも、一旦、〈あなた〉の肉体を形成した分子は、元素は、永遠に宇宙を漂わねばならない、つまり、ゴミの山に永遠に埋もれてはならない…オロカシコ(愚人)に霊は無い。ただし、オロカシコにも馴染み深い肉はある、この肉こそが、この肉灰こそが永遠に宇宙を漂い(もし、そうであれば、死んでも淋しさを感じないもの、永遠の肉灰雲水になったようなものだ…つまり、風に吹かれて、だし、大空の鳥のように、だし、そよ風とわたし、なのだ。…上昇に上昇を重ね、なおも永遠に上昇を重ね、遂には、果ての果てでは、もしかすれば、アンドロメダ姫にだって、会えるかもかも…なのだ)したがって、やはり、活火山の火口へ、真っ逆さま、という条件だけは、必要不可欠かも、かな。それとも…なぜって、もしそうでなければ…やはり必要なのは、〈あなた〉の肉の高熱分解、分子化、原子化、粒子化、上昇拡散、宇宙への、果ての果てへの(ハイテクを駆使すれば、これらに必要な装置など、どんなに完璧なものであれ、何の苦も無く(朝飯前に、屁の河童で)製作可能に違いないのに(採算が取れない?)…もしそうなれば、火口も、ヘリも、屁ったくれも、もはや、…)〈彼女〉も一緒なら、どんなにいいことだろうと、思うかもしれないけれど、それは〈あなた〉の了見違いだ。甘えてはいけない。永遠の孤独こそが、〈彼女〉を永遠に激しく求める原動力なのだ。愛したいのなら、離れなければならない。このことは、絶対に忘れてはならない。なぜなら、問題なのは、愛だもの。…それにまた、離れても、永遠に忘れることなどできないだろう。あの面影も、あの薫りも、あの感触、あの微笑み…それこそが、何よりも、…しかし、それは、離れてこそ…なのだ。愛は離れてこそなのだ。…しかも、愚人(オロカ、オロカバエ、オロカシコ)にとって、愛する以上に、価値あるものが何かあるだろうか…即ち、〈あなた〉の場合に限って言ってみれば(つまり、オロカシコ即オロカバエ(愚か生え)即愚人)の場合、肉灰雲水こそが、永遠の理想、究極の存在形態、完璧な…となるのと違うのだろうか…
〈彼女〉は〈あなた〉は馬鹿だと言ってよく怒る。〈あなた〉が言葉を知らないから、話しようも、教えようもない、と言って、よく怒る。確かに、〈彼女〉は、〈あなた〉の知らない、多くの美しい詩語や意味の分らない言葉(哲学用語?)やむずかしい外国語や…を〈あなた〉よりはずっとずっと多く知っている。その点、〈あなた〉は〈彼女〉を尊敬している。そして、尊敬しているのだから、少しは 〈あなた〉のことも理解して、やさしくしてほしく思うのだ。(〈彼女〉には、〈あなた〉は男なのだから、要するに女よりも賢くなければならない、といった古い固定観念にとらわれたところが、あるのではなかろうか。これは、完全な〈あなた〉の誤解なのかも知れないけれど、しかし、もし本当に〈彼女〉がそうであるとすれば、それは〈彼女〉の偏見というものであって、…珍しくも〈彼女〉らしくないところだが…(〈あなた〉の向上を切に願ってのことからかもしれないのだけれども、つまり、励ましの意味を込めての…叱咤激励、か)ところで、男と女のカップルが、かりに百あるとすれば、五十組は男の方が賢い組があると思うが、残りの五十組は、おそらく反対なのではなかろうか…〈あなた〉には、そう思える。それらの組では、女の方がカップルを組んだ男よりも賢いのである。これは、純粋な脳の働きにおける場合であるが…そして、これらの確率は、単に脳だけではなくて、他のあらゆる能力の分野の比較において、…たとえば、勇気のレベルでの比較…とか、正義感のレベルでの比較…とか、あるいは、神経系統の反応速度とか、要するに、あらゆる分野で…最後には、腕力すらもが、案外、実際には、fifty-fifty、になっているのではなかろうか、圧力無しの、本当に実力で、フェアーに、遠慮無しで、トコトン殴り合いでもをやらしてみれば。前後の因縁はすっかりぬきにして、だ…だから、本当は男も女もあったもんじゃないのであって、頭の強い方が、そのカップルの、頭の分野のリーダーシップをとれば、それはそれでいいのであって、勇気の強い方が、勇気の分野でのリーダーシップを…ところで、実のところ、詩語や哲学用語に馴染む位なら、〈あなた〉などは、むしろ、小船を操って、潮風を存分に吸って、頭から舳の切る水しぶきをかぶってでもいる方が、よっぽど…すると〈彼女〉は言うだろう、両方をやればいいのよ、択一的問題ではないでしょう、馬っ鹿馬っ鹿しい…ところが〈あなた〉などは、おそらく、片方は生まれつき好きなのだが、もう一方は、なかなか好きにはなれない…しかし、詩語、哲学用語が好きになれない分、つまり、頭が弱い(オロカシコの)分、〈彼女〉に身をもって尽くそうと思っているのだから、そこのところを…だが、なかなかその点を、〈彼女〉は、理解してくれない。〈あなた〉は〈彼女〉が少しでも快適にできる様にと、これでも、それなりに…ところが〈彼女〉はといえば、特別、〈あなた〉が考えて身を尽くしてあげていても、そんなものは、もともと当たり前のことであって、無意識のうちにも、〈彼女〉の美しさの代償とでも思っているのだろうかと疑りたくなる。…仕事もはかどり、疲れがぼつぼつ…と見受けられる頃になると…〈あなた〉の愚かしさがもとで、〈彼女〉の気分を損なうのが原因とはいえ、やがては、〈彼女〉の直情が…そして、このあたりのことになると、〈あなた〉も、もう何もかも分らなくなってくるのだが、何をどう理解したらよいのか、…勢いというものだろうか…ただ、はっきりと言えることは、だんだん〈彼女〉から受ける苦しみが増えてきていること、同時に、それに伴って、〈彼女〉の魅力が、だんだん、増し続けてきていること、そして、もう耐えられなくなって、そして、いよいよその時には…
〈あなた〉は、本当は、二十年も、三十年も、ずっと〈彼女〉のそばにいたい。しかし、実際には、長くて後五年だろう。三年かもしれない。いや、一年でも長すぎるかも。〈彼女〉の機会というものを、逸するようなことがあってはならない。いい人に出会うべきだ。しっかりとした、〈彼女〉にふさわしい人と。勿論、〈あなた〉としては、それには、複雑な、苦い、時には死にたくなるほど苦しい気持ちが付きまとう。嫉妬、というものなのだろうか。…しかし、〈あなた〉という男が、正常な生活を営めない、根っからの遊び人(グウタラ、ナマクラ)であるということは、〈彼女〉よりも〈あなた〉自身がよく知っていることだし、二、三年なら〈彼女〉の相手として、少しは刺激にも…〈彼女〉自身は、〈あなた〉のことを、肥料とか肥やし、といった言葉で呼んでいるが…「…は、あたしの肥やしよ」口の悪い女だ。実際、ひとを野壷の糞溜めの糞か何かのように思っている。しかし、それでいいのかも…だ。何でもよい。〈あなた〉は少しでも〈彼女〉の足しになれればそれでよい。後しばらくなら、〈彼女〉の刺激になるかもしれないが、それ以上は、かえってマイナスになるかもしれない。…ああ、しかし〈彼女〉なしで、毎日、毎日の、幾度も幾度もの、魅惑の深みへの、フィリピン海溝よりもなお深い、美の深奥の震えの、沈潜なくして、果たして生きていけるのだろうか…もし急に転換したら、まるで深海魚が日の目でも仰ごうかと、間違って海面近くまで浮上して来た様なものであって、圧力の釣り合いが狂ってしまい、内臓破裂を起こし、もう生きてはいけなくなってしまい、完全に…〈あなた〉は、もうすでに、〈彼女〉の美の魅惑という猛毒に当てられてしまっているのかも知れない。身動き一つも取れないまでに、中毒さされ続けてしまっているのだろうか。…といった、苦い想いが、いま、…
鍵の音だ。〈彼女〉だ。やっと、いま、この苦い囚われの想いから、逃れられるかも知れない。
ドアが開かれようとしているのだろう。
メイドは、すでに、去って行ってしまっているのだろうか。掃除機の音は、全然、していない。もしそうだとすれば、いままで、〈あなた〉はもの想いに、あまりにも没頭しすぎていたのかもしれない。掃除機の音の変化を、つまりメイドの動向を、このところ、まったく感知していなかったみたいだ。おびただしい油断としか言いようがない。これでは危険極まりない。それにしても、カーテン、ばさっ、即、メイドの悲鳴、「ウヒャッ」はもとより「キャッ」または「ヒヤッ」を聞かずじまいで済んだということは、これは、ただただ、ラッキー、としか言いようがない。それにしても、実に実に、気疲れはした。もっとも、カーテンばさっ、皆無、に関しては、あるいはきっと、〈彼女〉の配慮があったのかも。
薫りは、〈彼女〉だ。隣の部屋から、〈彼女〉独特の体臭のきつい心地よい薫りが流れてくる。〈彼女〉の艶やかに黒光りのする陰毛が、いま、汗で、うっすらと濡れてしまっているのだろうか。〈彼女〉は〈あなた〉が〈彼女〉の汗の薫りを、信じられないほどにまで、ひどく好いていることをよく知っているので、だからバスルーム、つまりシャワーへは直行しないで、すぐに、直ちに、ここへ、ベッドへ、やって来てくれることとなるだろう。何か口笛なんかを吹きながら、ゆるくゆるく、キューバン・ルンバのステップなんかを踏みながら…
しかし、それから後のこととなると、〈彼女〉がどのような振る舞いに出てくるか、その時その時の〈彼女〉の気分次第なので、一気に決め付けてかかることは困難だろう。それでも、あえて、ある種のパターンにしたがうなら、つまり散歩中に、外で何か気に入らない、不愉快なことにでも出くわした後だったりした折には、(しかも、その前段階として、特に仕事がうまく捗っていない時などには)、留守中ずっとにわたる、〈あなた〉の〈彼女〉への愛の想い…その努力にもかかわらず、〈彼女〉は〈あなた〉への理不尽な振る舞いに出てくるかもしれない。勿論、そのような折には、口笛、もなければ、キューバンどころか、ただのルンバ・ステップそれ自体が、すでに、ありはしないだろう。それらは、〈彼女〉の精神の絶好調の折のみのことなのだから…つまり、長い間ずっと、いまだにベッドの上で身動きのとれていない、後ろ手に縛られた、足も足首のところで縛られている、しかも、背骨を反らして手足直結に縛られている、その〈あなた〉の身を、なおも、苛みにかかってくるのだろうか。・・殴る、蹴る、の場合もあるが、一番多く殆どの場合は、バッグから、すでに、取り外されている、黒い、細くて長い革紐、ないしは、〈彼女〉の幅狭の黒いベルトで、〈あなた〉を鞭打ち始めるだろう。このような時、〈あなた〉は、すっかり眠った、あるいは、すでに死んでいることになっているので、決して、目を開いてはいけないのである。
その間、〈あなた〉は何の快感もなく、全身、いまだに縛られたままで、純然たる〈彼女〉の物となり、違和感と痛みだけを、ただただ、ずっと、耐え忍ぶこととなるだろう。このような折、〈あなた〉はやがて必ず訪れる〈彼女〉の直情の急変、つまり極度のやさしさへの変転を予想してはいるのだが、それでも現にある苦痛には、どうしても我慢し続けることが出来なくなり、最後には、唸り声(猿轡のため言葉は発せられない)でもって、〈彼女〉に許しを乞うこととなるのだろう。しかし、それでも、〈彼女〉はなかなか許してはくれないだろう。
しかし、結局は、いつものように、〈彼女〉の直情は、突如、逆進を開始し、〈あなた〉の肉体への無関心からは関心へ、苛みからは慈しみへ、そして、憤怒の念からは欲情の念へと、変転が…
ここに到って、〈彼女〉は〈あなた〉への縛め…それは、〈彼女〉のガウンのベルトだったり、〈彼女〉のブレザーのシルクのネクタイを結んでつなぎ合わせたものだったり、ときに、仔犬用の、撓い易い極細手の鎖だったりするのだが…留守中ずっと我慢していたその縛めを、いま、やっと解きに掛かってくれることとなるだろう。変色し、がたがたに窪んでしまった〈あなた〉の手首と足首の肉に、〈彼女〉は狂おしい口づけを始めることとなるだろう。猿轡が…鞭打ちの際に、あたりに発せられる〈あなた〉の悲鳴を防ぐためのものであるが…あまり、悲鳴が辺りに漏れると、周囲の者達が不安がり、そのことを通知されたメイド達が保安のため仕方なく、覗きに来ることがあるのである。…猿轡が…全然されないままでの時もあるし、タオルでされることもある。(タオルの時は、途中でよく外れてしまっている)…〈彼女〉の外出は幾分長目なので、そのような折には、外れている確率は、タオルの場合、ほぼ百パーセントに達していることだろうが。…口への詰め物は、〈彼女〉の薄物の、パンティの折もある。勿論、すでに、〈彼女〉の肌に馴染んだものでなければ…もし、その点を〈彼女〉が間違いそうになった折などには、〈あなた〉は出来るだけ懇願することにしている。なぜなら、馴染みのあるものとないもとでは、〈あなた〉の心の和みの程度が、全然違うもの…しかし、〈彼女〉は、意地悪くも、そのような〈あなた〉の願望をわざと無視する場合もあり、そしてそのような折には、不運にも、真新しいパンティが…。口への詰め物のパンティが取り除かれて、初めて、〈彼女〉は〈あなた〉の口への、思いっ切り充分な口づけが出来ることとなるだろう。それは非常に狂おしく、しかもその狂おしさを通じて、〈彼女〉のしっかりとした、〈あなた〉への誠意が伝わってくるような、そのような口づけであるのだが…〈彼女〉に随分ひどい目にあわされた後でさえ、〈あなた〉は、この口づけ一つで、〈彼女〉を再び心から信頼できるようになってしまう…それは、そのような体(てい)の口づけで…
〈彼女〉の薫りが漂ってくる。
いま、〈彼女〉の四肢の動きが空を切る微かな音が…すっかり眠ったことになっている…すでに、死んでしまったこととなっている…その〈あなた〉の耳に、弱く鈍く、近づいて来るのがわかる。
〈彼女〉の身が切る、ささやかな風が、いま、〈あなた〉の裸の肌の上を流れて…
それにしても、これで、囚われの、悪しき想いも、しばし、途絶えることとなるのだろうか、どうなのか…
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土呂夢小説集 Ⅲ
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