2012年5月26日 (土)

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2012年4月20日 (金)

土呂夢小説集 Ⅲ

 
   囚われて
  
                  杏 土呂夢(あん どろむ) 

いまは、正午前なのか、それとも、すでにもう正午を過ぎてしまっているのか…そしてまた、外は晴れているのか、それとも、晴れてはいないのか…〈あなた〉には、一向に、わからない。
窓には、多分、二重にカーテンが閉じられているのだろう。カーテンの縁の部分から、漏れ入る光線の具合から判断してみたくもなるのだが、その光量は極めて少ない。皆無、と言ってもいいくらいだ。…カーテンが立派すぎる。上部には横に飾り布が付いていて、光を完全に遮断…全体にカーテンは窓枠よりは大き目で…だから、漏れ入る光は、ほとんど絶無に近く…もしかすれば、窓自体がすっかり偽りの…だから、光らしきものも、実は、すべてが、人工の…かもしれない。
掃除機のモーター音が、いま、鈍く、〈あなた〉には、聞こえている。肘掛け椅子の置いてある、そして、バスルームへも通じる、隣の続き部屋の、も一つ向こう側の部屋あたりを、メイドが掃除しているのだろう。仮にそうだとすると、通常のチェックアウトの時間は、もう過ぎ去ってしまっているに違いない。こういったホテルのことだから、もしかすれば、正午もまた、すでに完全に過ぎ去ってしまっているのだろうか、どうなのか。
急に、いま、〈あなた〉には、不安の念が…。もしかすると、メイドに覗かれる、というよりも、メイドに、突然、見下(みくだ)される、のではなかろうか、という不安である。続き部屋との間には、ドアも無いことだし、…アーチ型に、壁の一角が繰り抜かれているだけで…だから、メイドは、当然、ノックのしようもなく、…したがって、すたすたと入って来て、いきなりベッドのカーテンを、バサッ、と、やりかねない。もし、そうなれば…〈あなた〉の姿を見て、きっとメイドは、「キャッ!」とか「ヒャッ!」とか…中には「ウヒャッ!」などと叫ぶメイドがいるのだろうか、どうなのか…。
カーテンを開かれ、見下(みくだ)されるだけでも、〈あなた〉は、死にたくなるほど辛いだろうに…その上に、背後から、「キャッ!」とか「ヒャッ!」とか「ウヒャッ!」などと叫ばれると、今度は、その叫び声からくる恐怖の念で身が凍り、一瞬心臓発作でも誘発されて死んでしまうかも知れない。…メイドが来るであろう方へ、前もって顔を向けておく…つまり、その際には、顔と顔が直面することになるのだが…(身構えておく)…しかし、それには、体全体をベッドの上で、ドカッ、と、反転させねばならないだろう…目下の、〈あなた〉のその体勢では、反転は、おそらく、不可能だろう…仮に、出来たとしても、そんなことをすれば、ベッドのスプリングは大きく軋むことだろうし…軋むなどと言った程度では全然なくて、完全に異様な膨大なスプリング音が…そこで、不審に思ったメイドが近づいてきて、即、ベッドのカーテンを、バサッ、だ…今度は正面からだ、つまり、直面、だ…直面の方が、ずっと怖いかも知れない。カーテンが開かれたとたんに、見知らぬ人間の視線に、その身を晒すこととなるのだから。しかし、それよりも、そちらを見た相手の方が、きっと、もっと驚いて…実際、…どの感嘆詞を選ぶかは、メイドの性格にもよるのだろう…というか、逆に、どの感嘆詞を選ぶかによって、そのメイドの性格が定まるのかも知れないのだけれど…普通は咄嗟の場合、「キャッ!」とか「ヒヤッ!」とかだろう。「ウヒャッ!」などと言われれば…それは、きっと、化け物だ…怖くて、〈あなた〉の方がもたないだろう…
何の配慮もなしで、(…疲れ切って、しかも、そのような状態で、まどろんでいた〈あなた〉を捨てたままで)〈彼女〉が出て行ってしまった、などということは、ほとんど考えられない。(時に粗暴に、時にまた、乱暴に、まれに、狂暴に、〈彼女〉は…。だけど本当は〈彼女〉は聡明そのものなのだ。思慮深い女なのだ…と〈あなた〉は思っているかも知れない…〈あなた〉の知力などでは、到底、〈彼女〉の知力は測り知れない…及びも付かないことだろう…)したがって、外出の際、〈あなた〉の身が人目に晒されるようなことがないように、きっと〈彼女〉は、フロントでも、部屋に残されている〈あなた〉のことは配慮され、告げられているに違いない。そして、それ故に、フロントはメイドに、肘掛け椅子の置いてある、そして、バスルームへも通じる、隣の続き部屋の、も一つ外側の部屋を掃除するのはよいが、それより内側は、掃除せずに(ベッドメイキングも一切せずに)捨てて置くように、とか何とか注意して…(しかし、そう物事、論理的に、理路整然と、一分の隙も無く、〈あなた〉に都合のよいように、つまり、バッチシ、に、行くものなのだろうか、どうなのか…どこかで一つヘマが起こると、即座に、カーテン、ばさっ、だ。それに、フロント、フロント、といったところで、この種のホテルでは、フロントなど、まるで有って無きがごとし、の場合などもあって…有名無実…何の責任も…なのだから…当てになどは到底…)
〈あなた〉は、平気といえば、平気なのだ、何も…しかし、〈あなた〉が恐れているのは、〈あなた〉を見たものが、不意を突かれて恐怖の念に襲われ…その際に、〈あなた〉の背後で、〈あなた〉の見えないところで発せられるであろう悲鳴(「キャッ!」ないしは「ヒヤッ!」極めてまれに「ウヒャッ!」…)この悲鳴を耳にすること…この悲鳴を耳にするのが…この悲鳴をもし耳にするようなことになれば、〈あなた〉の心臓はきっと、ギュウッ、と痛むに違いない。〈あなた〉は、その一瞬の心臓の痛みが、すでに今から、幾分かは感じ取れるような気がしているのかも知れない。確率的に言って、十中八九、メイドは、他の部屋同様、この部屋は無人だ、と思い込んでいるように〈あなた〉には思える。それだけに、極めて危険が…だから、〈あなた〉としては、たとえば、咳払いを一発かますとか(この際、それは全く不可能だが…)そうすることによって〈あなた〉の存在を知らしめる…つまり、何らかの方法…しかし、鈍いとはいえ、掃除機のモーター音がしているのだ。そこへもっていって、離れたところからのささやかな一発…メイドが耳にしている音は、そんな軟弱な咳払いの一発音などでは、到底…だから、そこから発して、いま、メイドに気付かれるには、よっぽどの大声…したがって、つまり、叫び声…しかし、そんなことをすれば、そのこと自体が…異様に…完全な驚愕を…驚愕の念を…驚愕の念を惹起せしめるに足り得る…だから…しかも、もともと、目下の場合、咳払いなどという仮定は、ほとんど百パーセント不可能だろう…なぜなら、つまり、〈あなた〉の口には猿轡が…

〈彼女〉はきっと、朝食(兼昼食)をとりに行ったのだろう…勿論、朝の散歩も兼ねて…見知らぬ街を…〈彼女〉のことだから、メニューは、黒ビールにタン・シチュー、または、黒ビールに牡蠣フライ…ほかに、果物とか野菜とか(〈あなた〉の極度に嫌いなもの)を、ごちゃごちゃと…腹の空き具合(昨夜以来の〈彼女〉の消費した知的、ないしは、肉体的エネルギー)からすれば、きっとその両方、タン・シチューと牡蠣フライ…黒ビールに関しては(瓶詰めの小瓶か、それとも、樽からのジョッキか)、それは〈彼女〉の立ち寄ったレストランによりけりなのだろうけれど…黒ビールの量に関しては…〈彼女〉は、まずアルコールに関しては、底なし、と言ってもいいくらいの酒豪なのだが、自制心が極めて強いので、いまのこの、おおよその、時刻くらいなら(…時刻は、しかとは、分らないのだけれども)、しかも、いま、〈彼女〉は、間違いなく、心身共に快適さの頂点にあるはずだから、ほんの少し、つまり、瓶詰めを置いているレストランでなら、小瓶二、三本(ライスは食べない)といったところだろう。…それでも、帰ってきて、すぐに狂おしく(身動きの殆どとれない、半ばベッドに埋もれている〈あなた〉の口の)〈あなた〉の唇に乱暴に…その時には、ビールの匂いが、プーン、と匂って…〈あなた〉には、同時に、〈彼女〉の薫りが・・・いつも、どうして、あんなにすばらしく感じられるのだろうか…その時こそ、〈あなた〉は、…一切の苦悩、一切の不可能の想い、すべての悪しき想いから、放たれて…
とは言え、時々、ごく稀にではあるけれど、〈あなた〉は〈彼女〉の〈あなた〉への想いを疑る時がある。しかし、勿論、そのことに関しては、〈彼女〉には内緒にしている。そんなことを、もし〈彼女〉に知られて(〈彼女〉のことだから)あからさまに「愛してなどいないわよ」などと言われれば、(〈彼女〉はきっとそう言うに決まっている…「あなたって、分っていないのね、ほんと」とか)…そうなると、もう一巻の終わりだ、と〈あなた〉は思う。〈あなた〉は目の前が真っ暗になり、どう生きて行ったらいいのか、分らなくなるに違いない。それくらいなら、黙ったままで…黙ってさえいれば、〈彼女〉の方から、「愛してなどいないわよ」とも、「あなたと結婚などできるはず無いじゃないの、馬鹿ね」とも「愛よりも、友情とか親密さの方が上かもしれないわよ、きっと」などといった、〈あなた〉には絶望的とも思える…〈あなた〉は、一度でもいいから、〈彼女〉にやさしい言葉を掛けてもらいたいのだ。本当は、愛の囁きを、〈あなた〉の耳にしてほしく思うのだ。なぜなら、〈あなた〉が愛されたく思っているのは、この世でただ一人〈彼女〉だけなのだから。勿論、自然に、自発的に、胸の奥から込み上げほとばしる本当の言葉として、だ。だけれど…この言葉こそが、初めにして最後だと、〈あなた〉はいつも思っている、つまり、トドメ、みたいなものだ。もしこの言葉がなければ、何億の刻々も、まるで脆弱な、一刻の幻影、にしか過ぎなくなり、それは刹那のうちに、見る見る…やがては崩れ去ってしまい…つまり、何事も無かったも同然、無、となるのだ。…したがって、この際、真に価値あるもの、といえば、言葉、なのだ。いつまでも耳の奥に残るのは、愛の言葉だけなのだ。…ところで、〈彼女〉に〈あなた〉に対する愛の言葉が無いのは、〈彼女〉が、最後、つまり、愛の絶頂と別れ、を、単に、ただただ、望んでいないだけなのだ、という希望的観測も出来なくもないのだが、それは、しかし、何とも何とも、寒くて、冷たくて、凍え死にしはしないかと危惧されるほどに、惨めな惨めな推論ではある、ように〈あなた〉には思えるだろう。はっきり言って、〈あなた〉は〈彼女〉に愛されていない。〈あなた〉は〈彼女〉のお気に入りの道具である。〈あなた〉は〈彼女〉の物である。…〈あなた〉は…
しかし、まあ、このような本質的な問題には触れず、黙ってさえいれば、望みもしなければ、信じたくもないような〈彼女〉の真の言葉を耳にする可能性も…皆無、とまではいかないまでも、その確率は極めて低く…〈彼女〉は、目下、〈あなた〉には、精神的な事柄以外の何かを求めているのかもしれないし、それとも、すべてを満たされて、何も求めてなどはいないのかもしれない。…〈あなた〉と〈彼女〉、即、無関係な、ただ熱いだけの関係。
〈あなた〉にはそれ以外には何もない、〈彼女〉が望むようなものは、何一つ持ち合わせていない。しかも、今の状況では、将来とも…何もかも、駄目だろう…〈あなた〉には、行く手には、唯一つ、死があるだけだろう。確実な想いは、死の想い、だけだ。〈あなた〉自身にとっては、もっとも似つかわしくない死などというものが、往く手に大きく立ちはだかっているというこの事実、このこと自体、一体これは何なのだ。〈あなた〉の心は、そのことでも、痛んでいる。…やがて、そのうちに、〈彼女〉の気も変わって…しかし、〈彼女〉のことだから、あの性分だから、そのようなことは…第一に、〈彼女〉の〈彼〉のこと以来…
〈彼女〉の〈彼〉に関しては、いまだに、どう考えればよいのか、何一つわからない。過ぎ去ってしまったこと、と言えばそれまでだが…〈彼女〉は、〈あなた〉との親密な関係が出来てからは、〈彼〉のことを、なぜか、一切話題にしなくなった…(それ以前には、〈彼〉が、今日は、ヘリコプターに乗って取材に出かけたとか…、あるいは、〈彼〉のT大での卒論は、まだ発禁だった頃のローレンスの《チャタレー夫人の恋人》に関するものだったとか、〈彼〉の最近の若い恋人(真偽の程は、〈あなた〉には、証拠十分、とは言えない)への〈彼女〉の危惧の念とか…いずれも正面から話題にしたものではなく、何かのついでに、〈あなた〉は、つい、漏れ聞いた、といった感じなのだが…)しかし、最近では、一切、耳にしない…勿論、といえば、勿論かも知れない。誰だって、死者については…しかし〈あなた〉などは、まず、死者に対する礼節から、何よりも…しかし、〈彼女〉はその点、そのような〈あなた〉の立場を、頭から馬鹿にするだろう。「関係ないわよ」…。それでも〈あなた〉が、しつっこくしていると、随分と怒ることだろう。謝りなさい、と叫ばれ、最後には、結局、蹴られ、ぶたれ、鞭打たれ…とどのつまりは、いつものように、〈彼女〉の意が充分に満たされ尽くされるまでは…〈あなた〉は、ただただ、なされるがままに…〈あなた〉だとて、想い出したくなど、全然、ないのだ。できることなら、忘れていたい。しかし、〈彼女〉の愛がどうなるかによって、〈あなた〉の幸せ(しあわせ、などという言葉を使うと、また〈彼女〉に馬鹿にされ、叱られるから使うのを中止するかも知れないけれど)〈あなた〉の、快と苦、は大きく左右される事実からすれば、…そしてまた、何よりも〈彼〉(本当は、死者に対する礼節から、…また、〈あなた〉より、ずっと年上でもあったことだし…〈あなた〉は、〈彼〉のことを〈あの人〉、ないしは、時によっては、〈あの方〉とさえ呼びたいくらいなのだが、そんなことをすれば、また、〈彼女〉に、滅茶苦茶に…。「それは誤っている」と、きっと、〈彼女〉は言うことだろう。「死者死者って、頭っから馬鹿恐れするけれども、そんな必要など全くない。死者も生者も似たようなものよ。死者といえども全てが全て、かっては生臭い生者だったのだし…早くも人々は、死者が生きていた時に何をしたかを忘れようとしているのだ…また、生者といえども、どの一人も、やがては、死者となることを免れ得ないのだから…馬鹿げたことよ…ことさらに死者を特別扱いして持ち上げ甘やかせることは、欺瞞的でもあり、滑稽でもあり、…彼らを恐れたり…彼らを畏怖したり…神秘的なものは何もない。だからと言って、訳もなく、鞭打つ必要もなかろうけれど、さりとて、祭り上げる必要など、一切ない。…死者とは、彼らが生きていたときの実人生の諸経験の単なる総体にしか過ぎないのだから、別段…事実にのっとれば、人間早晩、似たり寄ったりで…大切なのは…」
〈あなた〉は別の事柄でも、何か、すっきりしないことが起きかけているかも知れない。それは、夏過ごした海辺の岬の村での出来事だが、宿泊所の十六歳の娘と恋をしてしまっているだろう。激烈な恋で、一瞬のうちに、うぶな娘の心に火を点け、めらめらに燃え上がらせたにもかかわらず、突然、夏の終わりと共に、〈あなた〉はK市へと去ってしまっている。しかも、K市では、そのまま〈彼女〉と出会ってしまうのだ。〈娘〉は高校生なので、〈あなた〉は、いますぐ、結婚したいといったのだが、卒業まであと二年足らずだから待ってくれと言われたのだ。すると、〈あなた〉は、何も言わず、次の日を待たず、その日の夜、黙って、自分の手漕ぎのボートで、夜光虫に輝く入江…夜毎ボートで近くの無人島まで〈娘〉と舟遊びした入江…を漕ぎ出し、次いで、四、五時間かかって、流れの速い真夜中の海を一つ漕ぎ切って、〈岬の夏の娘〉のもとを去ってしまった。衝撃で、〈娘〉は、いま、命からがらで生きている、ということを、〈あなた〉は、全然、何も知らないに違いない。
〈彼女〉、〈あなた〉、〈娘〉…〈あなた〉の心は、この三者の相関のうちに…そして、〈彼女〉は〈彼〉、〈彼女〉、〈あなた〉の三者の相関のうちに…そして、また、〈彼〉は、〈彼女〉、〈彼〉〈彼の女〉の三者の相関の内に…いま、〈彼の女〉は、〈あなた〉には、一見、何の関係もないように見えるのだが、〈彼〉が〈彼の女〉に浮気したばっかりに、あるいは、真偽の程は知る由もないけれど、その腹いせに、〈彼女〉が〈あなた〉を誘惑し、そんな事情とは一切知らず、誘惑された〈あなた〉は心から〈彼女〉を愛してしまい、その結果、あの可愛い〈娘〉を…〈あなた〉の幸福であり、〈あなた〉の正常であり、〈あなた〉の死ではなく生であり、〈あなた〉の未来そのものだった〈娘〉を、なんと〈あなた〉は捨ててしまうような羽目に陥ってしまったのだから…。何ということだろう。何という幸運を、薄情にも、〈あなた〉は…幸福とは、〈あなた〉と〈娘〉だったのだ…いまからでも、もちろん、〈あなた〉と〈娘〉になれる。しかし、それは、もはや、欺瞞というものだろう。それは困る…したがって、二度と、幸福を手にする資格など、〈あなた〉には…このような事実にのっとれば、〈彼の女〉もまた、〈あなた〉の快と苦に、つまり、〈あなた〉の…関係ないどころか、むしろ、〈あなた〉の不幸の第一原因とさえ…〈彼〉が〈彼女〉を充分に愛していさえすれば、…浮気などしなければ…浮気などするのは馬鹿な人間に決まっている。いくら名門の血を引いていようが、いくら立派な大学を出て一流企業に勤めていようが、いくら背の高い一目見ただけで震いがくるほど渋みのあるハンサムな男であろうが、なかろうが、浮気などする権利はない。浮気とは、欺瞞であり、侵害であり、侮辱、差別…要するに、はっきりとすべきだ、きっぱりと、堂々と、大切なことをいい加減にするのは馬鹿のすることだ…つまり、〈彼女〉に理由を言い〈彼女〉を納得させ、つまり、〈彼女〉が納得するまで説得を続けなければならない…なぜなら、大切なのは〈彼〉の説得ではなくて、あくまでも〈彼女〉の納得の方なのだから…しかる後に、〈彼女〉と別れ、いま一人の女、すなはち、〈彼の女〉と…物事きっぱりとしなければ…要するに、何が何でも、きっぱりとするべきなのだ…結婚しているのだから。ところが、〈彼〉は、何もかもひっくるめたままで、ごちゃごちゃに、自分の都合だけで、他の人のことを顧みずに…子供のすることだ。だから、もしそれが事実だとすれば、アホ(ないしは、アボ、アポ)としか言いようがない。少なくとも、思慮あるおとなの人間のすることではない…〈彼〉の浮気、〈彼女〉の不幸、〈あなた〉の不幸、〈娘〉の不幸…まるで、将棋倒し、だ。何という屈辱だ。何という因果関係だ。〈彼〉こそが第一原因、人々の不幸の元凶…〈彼〉が欲張りさえしなければ、〈彼〉がもっとしっかりとした人間だったら…一国全体、といった様な風潮にすら押し流されない確固とした個性の持ち主なら…〈彼〉と〈彼女〉、〈あなた〉と〈娘〉…別々で、何の関係もなく、したがって、苦悩も不幸も一切なく…もっとも、〈彼女〉に言わせれば、苦しんでいるのは〈あなた〉だけで、誰も、それほど…となるのだが。「〈あなた〉は弱いのよ」…しかし、〈あなた〉には後になって分かったことだが、〈娘〉の苦しみ様といったら…刻々が、まるで命からがらといった有様で…交通事故だって、〈あなた〉のことが、原因らしい。〈娘〉は、歩行中も、苦しんでいたのだ。苦しみに、夢中になっていたのだ。苦しみとは、そう言ったものなのだ。時も場所も選ばない。極めて放恣な仁なのだ。そこへ、タクシー、ポーン、だ。〈娘〉はボンネットの上で失神していたのだ。…〈あなた〉が第一原因ではないにしろ、〈娘〉とすれば、〈あなた〉以外に原因があるわけではない。…〈娘〉の苦悩に関しては、すべて〈あなた〉に原因が。そして、原因の原因が、〈彼女〉の〈あなた〉への誘惑、そのまた原因が〈彼〉の〈彼の女〉への浮気…実際、年上の者は、浮気だらけなのだ、もう。そしてその結果はといえば、結局、年下の者ほど苦しみ…つまり、一番年下の、〈娘〉。ついで〈あなた〉。〈彼女〉、〈彼〉…といった順番なのだが…その順番に…苦しみが…年下の者ほど苦しみ…階層を成す恋の苦悩の…
困ったことは、確かに事実はあるのだ、しっかりと事実は存在する、それは、一時にしろ、〈彼女〉が苦しんだことから、〈あなた〉は事実だと信じている。しかし問題がないでもない。つまり、その事実をしっかりと確認できないということだ。〈あなた〉は〈彼〉の浮気に関しては、すっかり知っているわけではない。〈彼女〉の口を通してしか…疑り深い人間だと、きっと思われるだろうが、自分の体験した事柄ですら、光のあて具合によっては、事実というものが微妙に変化するように見えることがある以上、ましてや、人の口を通して聞いた事柄などということになれば、疑るのが当たり前で、信じて掛かる方が、おかしいのである、と〈あなた〉は思う。だから、この〈彼〉の第一原因がもし無くなると…つまり、〈彼〉の浮気が事実でなかった、となると、今度は、非常に、〈あなた〉の立場が悪くなる…〈彼〉が道半ばで病死したという事実(肝臓病、ウイスキー痛飲が原因だろう)からすれば、確固とした事実のないままでの、死者に対するこのような推測、あるいは憶測、下手すると全くの邪推…〈あなた〉は、いま、恐れている。これは死者に対する完全なる冒涜かも。死者に永遠の霊があるのなら…〈あなた〉は、ただならぬ、悪を…
〈彼〉が病弱ゆえに、〈彼女〉の心にも揺らめきが…そこへ〈あなた〉が…それとなく、誘惑されたとはいえ、〈彼女〉は、すでに、人妻…〈あなた〉もまた、侵害を…しかも、今は離れている(休火山状態)とはいえ、すでに将来を約した〈娘〉、〈夏の岬の娘〉…夜毎、手漕ぎボートで海を渡り、無人島、渚、闇と月光と夜光虫と…それにしても、〈娘〉の唇の肉の味と〈彼女〉の唇の肉の味は、どうしてあんなに違っていたのだろう…年上の女と年下の、まだ十六歳だった〈娘〉の…年齢の差なのだろうか…〈あなた〉の情熱という点では、ほとんど違いはないだろう。〈娘〉は、きっぱりとしていて、綺麗で、魅力的で、情熱的だったが、一方、〈彼女〉は悩ましい飛びっきりの美女で、後にも先にも、〈彼女〉より美しい女性は〈あなた〉は〈あなた〉の人生で、一人も目にしていないだろう。知力では、これはもう、〈彼女〉が、断然、だろう。しかし、知力を恋するわけにもいかないだろう。魅力、これは異質ゆえにむづかしい。それがあるから、惹かれるのだろう。惹かれ方は、両者とも、電撃的だった。強度は…目下の〈あなた〉は認識不能だろう…あまりに〈彼女〉に囚われすぎている、…から、…かも。
しかし、本当に、病者である人の妻を…病者の心の安らぎを乱し…やがて死すべき者の心を乱し…死への更なる加速を…もしそうだったとすれば…勿論、〈あなた〉は〈彼〉が病者であるということすら、(確かに、顔色は、今から思ってみても、見る者が、ゾッ、とする程異様に、すでに極度に悪かったのだが)その時には何も知ってはいなかったのだから、〈彼〉の死後知ったのだ。また、〈あなた〉と〈彼女〉が知り合ったのは、〈彼〉の病状悪化以前のことであり…だから、〈彼〉が病気に罹っていたなどということは、〈あなた〉は、少しも…それにしても…いくら、それとなく、〈彼女〉に誘惑されたとはいえ、…しかもこの誘惑も、どうやら〈あなた〉の主観的色彩が濃く…〈彼女〉は、逆に、〈あなた〉が突然、突発的に、キスしてしまっていた、と言っている…〈彼女〉の〈あなた〉に対する目の色のことなど全然…〈彼〉が留守中の〈彼女〉の部屋でのことだったが…ま、自分の目の色のことなど、自分で認識することは、何人(なんぴと)にとっても不可能なことだろうから…しかし、その時に、心に感じたことを覚えていそうなものだと、〈あなた〉には思えるかもしれないのだが…その人の、その時の、その想いが目に表れ、他人(ひと)には、それが「目の色」となると思うのだが…しかし、明々白々、と誰にも思える事柄ですらが、実は、事実ではなかった、といったことが間々ある以上…ましてや、色恋ごとなどという、もともと、微妙な事柄にまつわる些細なことを根拠に推論するなどということは…ほとんど、不可能に近い…したがって、最終的には、〈彼女〉のものの考え方は、やはり、それなりに、確固としているように思われてくる。〈あなた〉のように、グラグラしてはいないみたいだ。使い物に、なるのだ。つまり、死者も生者も同等だ。善悪には、あまりには、拘束され過ぎない。欲しい物は何でも取って食う。思い煩わない。推論などという生温(なまぬる)っこいものには、初めから手を出さない。〈あなた〉とは、したがって、〈彼女〉は、ほとんど真反対なのだ、考え方が。ということは、〈あなた〉の考えは、あまり使い物にならない。つまり、〈あなた〉のような考え方で生きていこうとすると、すこぶる生きにくい。…生きにくい、とは何か。即、死にやすい…

死体の煩わしさ…これさえなければ、死も…と〈あなた〉は思う。死後、死体を自分の手で、どうにかする…これが理想だ。つまり、自分の死体を他人(ひと)の手に委ねたくない。…そのまま、土中に埋葬される。これは、怖い。真っ暗な土の中だもの。ぐるりびっしり真っ黒な土だ。永遠に。こんなことは、堪ったものでない。許せない。…他人(ひと)は死後のことだ、と言うかもしれない。死後だからどうだって言うのだろう。その通り、死後だ。しかし死後のことだからこそ、いまが大切なのだ、いまの想いが。死んだ後の事だから、土の中でもどうもないというのだろうか。どうもないだろう、と思っているのは、他ならぬ、今の、ひとの、想い、なのだ。だから、いまの〈あなた〉の想いからすれば…
窯で焼かれる。これも、土中の不潔さと比べると、まだましかもしれないけれど、しかし、周囲の、すぐそこから噴き出してくる炎、焼かれる時の辺りの耐火煉瓦の壁面の窮屈さ、その圧迫感、それに、骨壷に拾われた骨以外の骨は、一体どう処理されているのだろう。残りの〈あなた〉の肉体を形成していた諸元素は。〈あなた〉の灰は一体どこへ。と、思ってみると。…いや、そうではない。それは、土への愛なのだ。人々は、皆、大地へ帰るのだ。すっかり、すっかり、やがては大地へと帰っていくのだ。とも考えられるが、このゴミの山の、地中は、ゴミだらけだ。見えないところは、すべてゴミかと疑りたくなるくらい…そして、海もゴミ、海底には、ヘドロ…見えないところほど、恐ろしい。汚い。つまり、大地と呼ばれるべき、そのような清潔な場所は、一体に、あるのか、どうか。…灰を空へ。勿論、洋上遥か彼方で、太平洋洋上で、灰を空から…これはよい。これこそ、ピッタシだ。それにしても、灰にするとなると、やはり、窯が…それに、第一、自分の手で、自分の灰を…これは、可能とはいえない。不可能というものだ。他人の目、次いで、他人の手…そんなことを任せ切ってはいけない。許してはいけない。それは、永遠にかかわる事だもの。

鈍く、掃除機のモーター音が…一体、いつ、この音は消えるのだろう。この音が、消えない限りは、〈あなた〉の不安は、いつがきても、終わらない。在るような、無いような、妄想共が…。時間の経過にしたがって、反り返ったままの背骨が、幾分、痛みを感じているからかもしれない。…手首と足首にも…しかし、本当のところは、さっきから、時間は少しも流れていないのかもしれない…勿論、少なくとも、数秒くらいは、あるいは、せいぜい、数分くらいは…あのモーター音が、まず、止まらなければならない。そうすれば、それ相当の時間が過ぎ去ったという確固とした事実が…次に〈彼女〉が帰ってきて…その時はまた、それ相応の一定の時の…しかし〈彼女〉の…〈彼女〉が街を歩くと非常に目立つので、きっと往きの通りだけでも…男どもが…勿論、〈彼女〉は、そのようなことには、すでに、いやというほど、慣れきっているので、頭から、しかし、上手に無視して…しかし、それでも、〈彼女〉の気まぐれを満たすに充分な、鹿の子まだらのロース肉のような、いい男が…一緒に食事し、黒ビールにタンシチュウに牡蠣フライの、朝食兼昼食をとりながら、…マカオかモナコかバーデンバーデンの話などをしながら…このような場合、ま、九十九パーセント法螺話なのだが、それがまた受けるのだ。そのような時に、真実など喋ってみろ、それこそ完全なブチ壊しなのだ。それは馬鹿か気違いのすることだ。野暮というものだ。真実など誰も求めてなどいない。真実ほど、厄介で人を不幸にするものはないのだ。どうか目覚めさせないでくれ。どうか再び、現実という事実の世界の苦悩の味を舐めさせないでくれ。このままボケたままにしておいておくれ。…それにひきかえ、この法螺話の軽やかさといったら…ホテル***、**時頃に電話してみて…そうよ、そうなの…
モーター音が聞こえている限りは、危険が…しかし、モーター音が無くなれば、今度は、時間の目途が完全に無くなり、結局は、一切がまるで無みたいに…モーター音が消えたときこそ、むしろ、かえって、いよいよ、メイド、バサッ、の可能性が…だから、どっちもどっち、だ。物事すべてと同様、どっちもどっち、なのだ。要するに、絶えず、危険はあるのだ。…それにしても、〈彼女〉が待ち遠しい。〈彼女〉は、わたしだけと居てほしい、と〈あなた〉は、いま、思う。
〈彼女〉のあの愛らしさ、あの美しさを思えば、気が遠くなる。何がどうなろうと…善悪もへったくれも…これだから、〈あなた〉は、ついに至福の境には至れず…身は永遠の業火に苛まれ…

あれは、CJでのことだっただろう。夜は、すでに、更けていた。プラットホームに人影はなかった。一体、あんな夜更けに、〈あなた〉はどこへ行こうとしていたのだろう。…〈彼女〉に呼び出され、K市のしかるべきホテルへでも…?…最初は、物凄い急ブレーキーの音…同時に、闇の線路上に火花が…ブレーキーの鉄と車輪の鉄が軋んで…同時に、レールの鉄と急ブレーキーをかけられて無理矢理回転を止められてスリップする車輪の鉄が軋んで…鉄と鉄と鉄の軋みだ。膨大な摩擦熱…青白く巨大な花火みたいに、まるで地を這う仕掛花火みたいに灼熱の鉄の火花が…特急電車が全速力で通過しようとしていたのだろう。そこへ、ボーン、だったのだろう。枕木の上に、血痕が一つ。…ずっと離れた、枕木と枕木の間を埋めた石片の上に小さなピンクの肉片が一つ。また、進んで、間隔を置いて、血痕、肉片、肉片…肉片は、いま、光の具合ででもあるのだろうか、汁っぽい、ぴかぴか光った、真っピンクだ。それらは、まるで、〈あなた〉を闇へ、闇の中へと、暗黒へと導く道しるべみたいに…もう止めなければ、もう止めて引き返さなければ、これ以上進んではいけない。それはアクドイことだ。まともな人間のすることではない。そんなことをしてしまったら、二度と幸せには生きていけないだろう。もはや肉片を追ってはいけない。それは悪というものだ。…肉片は、間隔を置いて、ずっと、なおも、月明かりの薄闇の中へと…もはや、プラットホームも尽きてしまい…〈あなた〉はプラットホームから飛び降り、線路沿いに…月光に、レールがまるで白い長い光の棒みたいに輝き…〈あなた〉はなおも進むだろう。すると、短い鉄橋へとさしかかる。鉄橋の下に、小さな光芒が一つ見える。〈あなた〉は鉄橋の下へ、草むらの中へと飛び降りる。
「よくここまで来れましたね」男が言う。「ちょっとこれを握っておいてください」
男は〈あなた〉の方へ懐中電灯を押しつけてくるだろう。〈あなた〉は否応なく、それを握らされる。男は土手を這い上がり、それから、〈あなた〉の頭上の線路脇から、〈あなた〉を足下に見下ろして、言うだろう。
「犬が来るんですよ、犬が。・・・油断をしていると、野犬が、死体の肉を食いちぎりに来る…食いちぎり、食い散らかし…だから、注意深く、極力用心をして、野犬を追っ払い…よく照らしておいてください、死体を。絶対に…死体から目をそらさないようにしてください。すぐ近くから、死体をじっと見つめておいてください。死体だけを…凝視に凝視を重ねて…最前まで生きていた人間というものが、いま如何に在るかというこの事実を、じっくりと、納得できるまで、脳髄の、奥深く、鮮明に…人間の、肉体の、肉の変貌の…」それから、その男は(駅員に違いないと思われるのだが)、大声で、〈あなた〉に「ご苦労さんでっす」と言って、その場を去って行くだろう。
それは、もう、ボロボロだった。血まみれになった死体ではあるが、人間の死体には、到底、見ようにも見ようがなかった。もしこの世に化け物がいるのなら、これこそ、最も恐ろしい化け物の形相だろう、と〈あなた〉には思えたかもしれない。一体に、死体には、もう柔らかい部分、ハラワタとか肺臓とか、要するに内臓の部分、が全部なくなっていた。きっと特急電車の台車の部分に引っかかり、引きずられ、物凄い力で、まず衣服がぼろぼろになって剥ぎ取られ、皮が裂け肉が裂け、火花と共に、おびただしい灼熱して輝く鉄粉と共に、吹き飛ばされ、車体の裏側に貼り付き…一部は枕木や、枕木と枕木の間を埋め尽くしている石片の上に、この上もなく鮮やかなピンクの生肉の小片となり…最後に、まだ残っている死体が、鉄橋の枕木と枕木の間から、落下するまで…
残っているのは、頭部、といっても、目茶目茶に壊れているので、目も鼻も口も…怖い化け物の頭部としか言いようがない…目も鼻も口も、全て、裂けていた。そして、その頭蓋骨の部分に、ボロボロの屑みたいになった腕と脚の部分が縺れ付き…それは、まるで、本来は、頭部から直接四肢が生え出た、胴無しの、化け物が、なにか手足も顔も、絡みついてしまうほど、ぼろぼろに傷ついてしまった、といった体(てい)で…イタチか野鼠が、死体に寄って来たに違いない、乾いた枯れ草が、ガサガサ、と音を立てている…真夜中も過ぎたのだろうか。いま、鉄橋の枕木と枕木の間から、青白く、月の光が降り注ぎ…
改札口から少し離れた薄暗い赤黒い光の中に、一人の娘が立っている。辺りには人影もない。きっと今日という日に、父親をなくしてしまった、その娘だろうか。…自殺かもしれない。そうでないかもしれない。降りようとしている遮断機の下をくぐって、飛び込んだのだろう。勿論、赤色灯が点滅していたし、警報機もガンガン耳元で鳴っていた筈だ。しかし、男は急いでいたのと、まだ特急は来ないだろうという速断から…とすれば、男は事故死だろう。もし、自殺なら、遮断機をくぐるより、むしろプラットホームから飛び降りる方が、容易でもあり確実だろう、と〈あなた〉には思える。死後の死体の状況に関しては、遮断機をくぐって飛び込んだ場合も、プラットホームから飛び降りた場合も、共に、少々の不確実性は伴おうと思われるけれど、結局は、似たり寄ったりの化け物状になるのではなかろうか。…それにしても、一体に、死体の状態が…あまりにも…
〈あなた〉は〈彼女〉に、死後の死体の状態に関して、その美醜について、勿論、一般的の事柄としてなのだが、一度、少し喋り始めたことがある。が、〈彼女〉は全然話題に興味を示さなかった。それどころか、そんなことを思考の対象にすること自体、極めて不潔で、それは生の冒涜であり、〈あなた〉は非常に嫌いだ、といって怒りだしたので、そのことに関しては、以後、〈あなた〉は決して話題にしないようにしている。この点でも、〈彼女〉と〈あなた〉は、どうやら、真反対のようだ。〈あなた〉は、他人の死はともかく、自らの死に関しては、死もまた生の一部分ではないかと思っているので、自らの死後の死体の状態に関しても、これこそ、自身の永遠に関する事柄だ、と思っている。ところが、目下のところ、〈彼女〉は…〈彼女〉には、〈あなた〉の場合と違って、死後も、安心して死体を任せられる多くの人々がいるからなのだろう。その点、〈あなた〉は特殊で、もはや天涯孤独、一族崩壊最後の者、だから、やはり、立場の相違が…かも…一体に、〈あなた〉と〈彼女〉では、一致することといえば何だろう、極めて狭小な部分においてしか…

モーター音が続いている限りは、安全なのかも…と思ったその刹那、いま、モーター音が消えてしまった。心臓の鼓動が、ドキドキと…胸騒ぎがする。いよいよ…しかし、いま、静寂だ。ここで、今こそ、一発咳払いを…勿論、〈あなた〉は、いま、しようと思っても、決して、できない状態なのだけれど…たとえ出来たとしても、いざとなると、喉はからからに渇き切り、咽喉を形成する各種の腺がボッタツキ、縺れ付き…到底、咳払いなど〈あなた〉には無理だろう。出来そうにもない。…咳払いのセの字、ではなくて、エッヘン、のエの音も出てこない。…それに、咳払いさえすれば、百パーセント安全かと言えば、そんなことは何も保障されているわけではない。それは、単なる、主観的な、希望的観測にしか過ぎない。つまり、逆に、平気なメイドなら、咳払いを一発かまされたくらいでは、ひるみもたるみもしないだろう。何も気になどしていないし、完全な、自然体である。一切を、無視して、すたすたとベッドに近づいて来て、いきなり、カーテン、バサッ、だ。…デリカシイもへったくれも、あったもんじゃない。なぜって、客といえども、要するに、客だもの。メイドにとっては、単なる、〈遊び〉客にしか過ぎない。何も特別気を使う必要など…
いま、家具が引きずられているような音が聞こえている。もしかすれば、続き部屋の肘掛け椅子の置かれているあの辺りが、きっと、いま…されているのだろうか、どうなのか。…再び、掃除機のモーター音が…掃除が、いま、またも続行されていることは明らかな、事実だろう。これをしも、疑ることは、いくら〈あなた〉といえども…

考えてみると、どうやら、今日はゼミでの発表当番の日だったような気がしてくる。もしそうなら、無届スッポカシ、教室の人々にむやみと迷惑を掛ける〈あなた〉に、主任教授は、またまた、激怒されていることだろう。〈あなた〉は、大学を無視しようと思ったことなど、全く一度もない。ただただ〈彼女〉との生活に熱中し過ぎ、〈彼女〉に夢中になっているために…もしそうしていないと、〈彼女〉に見捨てられるのでは、という不安を感じるのだ。見捨てられないまでも…要するに、〈彼女〉に全力をあげざるを得ないのだ。…大学は、決して、逃げてはいかない。学問は…しかし〈彼女〉のような美しくて聡明で、かつ、強大な魅力と迫力の持ち主は、百年や二百年の歳月では、ちょっとやそっと、実際、二度と現れて来ないのではないか、と内心〈あなた〉は独り思っているかもしれない。しかし、もともとこれは、極めて主観的な事柄で、いわゆる、ヘタすると、馬鹿につける薬は…という奴で、徹頭徹尾、〈あなた〉の頭がイカレてしまっているのかもしれない。その危険が皆無ではない、と〈あなた〉自身も自ら、懐疑の眼差しでもって、自分自身の感じ方、振る舞い方を監視分析しているかもしれないのだが、目下のところは、そのような危惧すべき異常の兆候は、一応は、ほんの少しも無いように思われている。しかしこの点に関しては、厄介なことが完全に無いわけでもない。つまり、いくら厳密に自らを反省し、監視してみたところで、人間の場合、監視するものと監視されるものが、ある程度は、内部のどこかで直結している以上、したがって、狂っている場合には何もかも、つまり、センサー自体も、すでにやられてしまっている場合が多いのだから…だから、その観測結果たるや、推して知るべし、で…それ故に、いくら自己観測をやってみたところ、結局のところは、恋狂い、即ち、馬鹿につける薬は…なのかもしれない。要するに、大学の方は、もう今では、どうにもなるまい。お留守になってしまっている。きっと完全な失格だろう。お先真っ暗、である。
大学のことに関しては、いろいろな意見を耳にしたことがある。大学へ行って、直接、一人の教授の講義を聴くよりも、うちで(勿論、その教授の著作を一番に読むべきだが)、他の大学の二、三の教授の著作を読む方が、ずっと、効率的で、しかも十倍面白い、といった意見である。しかし、それが本当なのか、どうなのか、両者を共にほとんど経験していない〈あなた〉としては判断のしようがない。第一、著作の無い教授の場合は、どうすればよいのか。また、よし在ったとしても、その著作が三十年も前のものだったりしたら…なぜって、十年一昔、ってよく言われるもの…
大学へは、もう、何年間も、籍だけはずっと置いてあるのだが、あまり…というより、正確には、殆ど、出て行ったことがない。毎年、新年度になり、春休みも明けようかという頃になると、決意も新たに…ところが、五月の陽気が春の終わりを、季節の成熟を、告げ始めるや否や、鋭すぎる感受性というのか、弱すぎる頭、つまり、出来損ないの理性、というのか、気狂いが始まり、再び次の春が深まる頃までは…またまた、なのだ…〈あなた〉の場合、大学のある市自体に、ほとんど、留まっていることができない。海のない市には、どうも落ち着けない。常に、なぜか、イライラしてくる。乗り物に乗るか、…〈あなた〉の所有する乗り物…ボロぐるま一台、中古だが名手の手になる木製の手漕ぎボート(岬で、〈娘〉と四六時中乗りまくった奴)、同じく中古の国産最低馬力のアウトボード付きのモーターボート(せめて、マーキュリーの五十馬力くらいがほしいぜ、まったく)…これらが〈あなた〉の馴染み深い乗り物なのだが…乗り物を操っている時か、はたまた、色情にどっぷり浸かっている時か、それ以外の時は、なぜか、退屈で、気分がいらいらして、最後には、居ても立ってもいられなくなる。自分ではなくなるのだ。…大学での講義なんか聴いていると、もう、まどろっこしくて、いらいらしてきて、心ここあらず、想いはいつしか逸脱し、想像的となり、夢想的となり、妄想的となり、ついには気が狂いそうに苦しくなって、到頭、教室を飛び出してしまう。だから、他の方々に対して失礼千万なこととなる、実際、〈あなた〉が出席すると。…したがって、大学に関しては、これでは、まあ、卒業は殆ど不可能だろうし、就職も、勿論、駄目だろう。母が死に、次いで、父が自殺し、天涯孤独の身、一族崩壊の最後の者、というよりも見方を変えれば、完全な単身自在の身になるや否や、大学も就職もへったくれも、何もかも意味を失ってしまい、つまり、もともと人間の芯みたいなものがお粗末に出来ているのだろう。もしそうでなければ、状況がどうであれ、初志貫徹するであろうに。…人間というものが出来ていない。自由の価値に耐えられない低次の人間。放埓。賭博と色情以外に人生に何の興味をも示し得ない、この上もなく貧弱狭小な人間。…勿論、これらのこと…大学と就職を殆ど諦めかけていることは、〈彼女〉には内緒だ。もし本当のことを言えば、またまた、〈彼女〉は激怒し、足で蹴られるといったくらいのことで済めばまだしも、無視され、軽蔑され、そのまま、きっと最後には、捨てられてしまうだろう。…(ちなみに、〈彼女〉の家系は、作家とか評論家とか大学教授とか医者とかが三、四代に渡って幾人も幾人も輩出している大変な家系であるらしい。〈彼女〉自身は開業している内科医を父に持つ)
最近では、大体において、〈彼女〉とのホテル暮らしがほとんどだから、大学へ行く余裕などなかなか出てこない。本なども一冊も持ち運んでいないことだし、たまに事務的な問題で大学へ顔を出すといっても、それは、あわただしいもので、ホテルのベッドから即タクシー直行即トンボ帰り、といった具合なのだ。こういう生活をしていると、時間の質というか、時間の認識の仕方というか、それが変化し、狂ってしまう。束縛皆無ときているものだから、朝も昼も夜もない。目覚めれば、何時であれ、即、起き、疲れれば、即、眠る。腹が減れば、いつ何時であれ、真夜中であれ、出前を取って好きなものを食う。飲む食う風呂に入る、四六時中自在である。何事も、やりっ放しである。アルコールは、飲み慣れたものなら、なんでもよい、冷蔵庫にしこたま仕込んでいる。ビール、ワイン(モーゼルのあれこれ)、ウォッカ(ストリチナヤ)、ジン(ボンベイ・サファイア)、ラム(ハバナ・クラブ)、といったところか。飲み飽きたら、変えればよい。飲み疲れれば、即眠る。寝覚めのバスは特によい。湯上りの空きっ腹のアルコールはこよなくよい。そして〈彼女〉は生き生きとしていて、髪の毛の先から、足の爪先まで、どこもすべてが魅惑に輝いて美しい。
我慢というものを、一切しない。無理もしない。努力もしない。全くの自然体。自在至極。骨なし生活。下等動物、水母(海月)流。
しかし、〈彼女〉の場合は、この点は少し異論があるかも。〈彼女〉の場合は、目下、仕事が第一だ。常に自らそう言っている。それに、事実、仕事も捗っているみたいだ。寝起きの、つまり、目覚め時の、必ずしも、朝だとは限らないのだけれど、というよりも、朝目覚めるなどということは、単なる偶然にしか過ぎず、何の意味もない。〈彼女〉は一日平均三、四回目覚める。ということは、一日平均三、四回眠るということだが。そして目覚めるとその都度、即、パソコンに向かう。そして、物凄いスピードで、爆発的エネルギーで、〈彼女〉自身は、その時の状態を、もう後から後から、泉のように、歓喜の念を伴って、言葉がほとばしり出てくるという。やはり、血統に狂いはない。天才に違いない。噴出の激しい時には、文字は他人には全然読めない何か無意味な暗号みたいになってしまっている。きっとタイピングが言葉の爆発に追っつかないのだろう。原因は、句読点の乱れと、漢字変換の際の選択拒否…そんなことは、どうだっていいのだ、〈彼女〉は言っている。スピードを落とすと、新たなほとばしりにブレーキーが掛かる。ほとばしりこそが命なのだから。その痕跡だけが残っていれば、…後は、つまり、人の読める文章に直していく作業、そんなものは、極々容易な、機械仕事…要するに、覚醒時、新鮮、明晰、噴出。これが、〈彼女〉の場合、文章の命らしい。
こういう時、つまり、目覚めと共に、迸りに襲われるとき、〈彼女〉は常にパンティで身を締め付けない。意識の爆発には、快適な自由こそがその出発点として必須だからだ、と〈彼女〉は言う。綿シャツ、綿はインド綿(サラサ?)がほとんどだが、上はその綿シャツ…ネグリジェ代わりに使った奴で、下はスッポン(ノー・パンティ)…ホテルの室内では、このスタイルが多い。まれには、もう、上も下も、丸スッポン、の時もあるが…寒さの折には、勿論、スッポンのままに、ガウンを引っ掛けたり、あるいは、タオル地のバスローブをひっかけたり、あるいは、厳寒の折などには、毛皮のコートを…〈あなた〉はたった一度見ただけだが…勿論、袖を通したりはしないで、パッと両肩に引っ掛けただけの…要するに、〈あなた〉は〈彼女〉の下着の状態のことだけを、今は、言っているのだろうけれど…
仕事をしている時の〈彼女〉の横顔は、常よりはまた一段と知的で、神々しいまでに美しく魅惑的に輝いている。不敬にも、〈あなた〉は一度だけ、このような時の〈彼女〉に仕掛けたことがあるが、それはもう、天罰覿面、たちどころに、眼中満天即烈火、といった具合で…眉間に肘鉄をグァツーン、と一発やられたのである。力一杯の容赦しない奴を。今度またまた、似たようなことを仕出かしでもしたら、それはもう、おそらく…では済まないだろう。〈あなた〉はもうコリゴリだ。しかしまた、ここのところは、極めてデリケートなところでもあって、正直言って、いまだに、この辺りのタイミングのツボというか呼吸というか…が解っていない。いいのかな、と思って仕掛けると、駄目だったり、まさかこんなところで、と思っていると、完全に、正解だったり、仕掛け時が四六時中自在であるだけに、うまく〈彼女〉の気分の壷にはまらないことには…とんでもない無粋を仕出かしたこととなり…だからといって、〈彼女〉に任せっ切りにしておくと、今度は、また、ひどく、姫君のご機嫌斜めの秘められた起因になったりして…人を敬愛すということも、なかなかむずかしい、辛抱のいることではある。
以上のようなあんばいだから、一日のうちに幾度も寝覚めがあるということは、〈彼女〉には好都合らしい。電光照明をあかあかと灯せば、真夜中でも、真っ昼間同様意識も覚醒し、また消せば、この種のホテルの部屋は、白昼でも陽光皆無ときている。…そもそも、主な生活の場がこの種のホテルに移れば、時間における、二、三日の誤差くらいは別段珍しくもなんともなく、ひどい場合には、三、四か月も、つまり、季節を一つ丸っぽ実感ないままに過ごしてしまう時がある。それにしても、正確な日付などは、わかったためしがない。〈あなた〉には必要ないのだ。わかってもすぐに忘れる。…それにしても、〈彼女〉は充分仕事がはかどり…〈彼女〉はもともとは、詩人である。しかし、いまでは、さる新聞社専属の、美術評論もやっており、最近では、種々の雑誌社などからも、特に、女性に関する種々雑多なコメント…随分注文が来ているようだ。金も稼いでいるみたいだ。金に関しては、〈あなた〉には想像できないくらいに、〈彼女〉は真剣だ。ホテル代を清算する時などは…最低、一週間から十日くらいは同じ部屋に留まるものだから、前もって交渉して相当割引してもらっているとはいえ、それでも随分金額も嵩み…そんな折は、非常に機嫌が悪い。〈彼女〉は一体に吝嗇なのかもしれない。もし〈あなた〉がお金を持っているのなら、勿論、〈あなた〉は喜んで払うだろう。〈彼女〉のためだもの。しかし〈あなた〉は、すでに無一文なのだ。だから払いたくっても払えない。しかしこの点、〈彼女〉は別な風に考えているみたいだ。つまり、ほんの少しとはいえ、〈あなた〉が〈あなた〉の父の遺産を、気違いみたいに、瞬時に、自分自身のことのみに蕩尽してしまったことが一度だけあるのだが、そのことを〈彼女〉は、いまだに、根に持っているみたいだ。このことに関しては、いまになって思えば、やはり〈あなた〉自身が悪かったのかもしれない、と〈あなた〉は思っている。しかし、もともと、桁違いに〈彼女〉はリッチであり、(働かないでもリッチなのだ。凄い財産をもっているのだろう)それに引き換え、こちらは、プアーもプアー、もうどうにもならない、万人があきれ果てるような、つまり、貧の極、無一文天涯孤独、と来ているのだから、稼ぐとなると、まあ釜が崎で立ちん坊やって、本船での沖仲仕か工事現場で土方でもをやる以外には…つまり、本邦最低の最高苛酷肉体労働…これなのだ。これ以外には…だからたまに、実際一生一度だろう、つまり、パアッ、と華やかに…といった甘い気持ちで蕩尽したのだが…しかし、やはり、今から思えば、少し身勝手が過ぎたのかも。〈彼女〉は、いまだに憤慨している。〈あなた〉を薄情だと決め付けている。非難されても、仕方ないだろう。しかし、それは決して、全部が全部、根っからそうなのではないのであって…と〈あなた〉は思う。
金の使い方に関しては、〈あなた〉のみならず、〈彼女〉にもまた、特異な性向があるようだ。〈彼女〉自身のために使う時は、相当思い切った出費も惜しまないのだが…宝石類、コスチュウム(プレタポルテが主(おも)みたいだが)は、まあ仕方ないとしても、気違い染みているのは靴だ。パンプス。何百足あるのか、分らないらしい。そのくせ、そんな高価な身の回り品は、あまり身に着けていないみたいだ。特に〈あなた〉と一緒の折は、来る日も来る日も、ジーンスタイルが殆どだ。〈あなた〉のために、二人の釣り合いを少しでも保つようにと、〈彼女〉はドレスダウンしてくれているのかも知れないけれど。宝石類は、ごてごてとは、勿論、着けないけれど、一発相当光った奴を、乳房と乳房の谷間辺りに隠しぶら下げて…〈あなた〉は、宝石には全く無知だろうから、価値に関しては、定かでない。しかし、相当な…一度ホテルに予定以上に長居して、ホテル代が支払えなくなったことがある。その時、ソフトデニムのシャツの下に掛けていた大きな輪っかの緑色をした宝石(翡翠?)を質入に持って行かされたことがある。質屋のおやじはその輪っかの大きさに驚いていた。〈あなた〉は翡翠は〈彼女〉に非常に似っかわしいとは思っていないし、その時、たまたま、彼女も着けていただけだろう。〈彼女〉には、もっと耀くものこそが似っかわしい、と〈あなた〉は思っているかもしれない。
コスチュームにしたところ、信じられないほど高価なものを、スパッと買う。しかし〈あなた〉と一緒の折は、そんなものは一度だって身に着けたためしがないのだし、もし〈彼女〉が正装すれば、〈あなた〉などは、もうどうにも場違い、無関係、異人種、月とスッポン、といった感じで、〈彼女〉のそばへは寄れないだろう。〈彼女〉はそこのところをよく知っているので、極力、〈あなた〉と一緒の折は、質素に、粗末に、艶を消し、輝きを捨て…しおらしいものである。しかし、この辺りのことをあまりに考えると、苦しみが湧いてきて気が狂いそうになることもある。〈彼女〉は早晩、二度目の結婚をするかもしれない。というよりも、また新しい恋人が出来て、そのうち結婚…かもしれない。家系、財産、学歴、ハンサムで、〈彼女〉より背が高くて…〈彼女〉は非常に背が高い。〈あなた〉は決して背が低い方ではないのだが、その〈あなた〉よりも、もっと高い…そんな男が現れたら〈彼女〉は、きっと、結婚するだろう。つまり、〈彼女〉の正装に耐えうる男が現れればだ。その点、〈あなた〉の一生は、綿パンで終わることとなるのだろう。〈あなた〉の不幸は、〈彼女〉は〈あなた〉と、こうして、仲良く暮らしておきながらも、結局のところは、〈あなた〉を愛してはいない、と懐疑することである。ここのところは、むずかしい。どうもはっきりしない。徹頭徹尾愛されていないのなら、いくら〈あなた〉だって、そうそう、こうして〈彼女〉に引っ付いてばかりはいないだろうと思われるし、特にベッドだけで愛されている場合、ないしは、ベッドでだけは愛されていると錯覚または誤解している場合は、どうにもこうにも、厄介で、救いようがないみたいだ。「正式に、天下晴れては、愛されていない。しかし…」この「しかし」が怖いのである。都合の悪いことはすべて、この例外条項に入れてしまって考える癖がついてしまうのだから。だから結局、現在位置、が掴みにくく、つまり事実とか真実とかに関する勘が鈍ってしまい、正常かつ健康な如何なる生活も営み辛くなる。ここでも、やはり、恋狂い、という奴が業をするとみられる。ところで、それでは逆に、〈あなた〉は、平時に、つまりベッド以外の時に、〈彼女〉に愛されているのかといえば、完全には愛されているわけではないということだけは、火を見るより明らかなのだ。男と女の間のことは、愛という言葉だけでは律し切れない部分があるのではなかろうか、とも時に思えるのだが、思う思わないはその人の勝手だが、それはやはり事実に反しているのではないかと、〈あなた〉はいぶかしがる。というのも、一般的に言って、「愛」という言葉の実体は了解できるものだし、現に存在するのだし…もし現実にそれが存在しないのなら存在させなければならない。そうでなければ、何のために、この世をうろうろと、うろついているのか、てんで分らなくなってしまう。しかし、ここのところは、極めて重要なだけに、慎重さと同時に、厳密さが…とはいえ、どうも〈あなた〉は、本当のところは愛されていないのでは、という疑念によくさいなまれる。そしてもし愛がないのならば、一切は、やはり、断ち切られるべき…いずれにしても、〈彼女〉としては、〈あなた〉とは、現在の関係より、より以上の関係のことは考えられない、と心に決めているみたいだ。なぜか、その理由は、一体。そんなことは、分らない。年下だからか。そんなことはあるまい。無一文だからか。そんなことはあるまい。〈あなた〉には将来が無いからか。そんなことはあるまい。グータラだからか。そんなこたあるまい…〈彼女〉より背が低いからか。そんなことはあるまい。ボートを漕いで腕の筋肉も肩の筋肉も腹筋も太ももの筋肉もキンキンコリコリに鍛え上げられているからか。そんなこたあるまい。思い当たる理由など、何も無いのである。だから、どうこうする必要もない。〈彼女〉だって、どうにもならない。どうしようもない。二人は、いまは、ただこうあるだけだ。そして、きっと、やがては、〈彼女〉は〈あなた〉以外のより優れた男と結婚する…〈あなた〉も〈彼女〉のこの選択は、おそらく正しいのだろうとは思っている。しかし、〈彼女〉はその後も、一生、〈あなた〉とこの関係を続けたく思っている。その点で、〈あなた〉は完全に理解できなくなる。もし結婚すると、こんないい関係はもう保てなくなる、〈彼女〉はずっと以前にそんな風なことを言ったことがある。そして、〈あなた〉も結婚するのよ、誰かと…、と〈彼女〉は言う。〈あなた〉はここに到って、何がどうなっているのか、何がどうなってほしいのか、てんで分らなくなる。要するに、やけに苦しく、不幸感、絶望感、虚無感に襲われる。勿論、このように、独りホテルの部屋に捨てられて、諸々の、悪の想いに、囚われて…。

実際もう、考えてみると、〈あなた〉には確固とした生活は無理だと思われる。しっかりとした人生を送るのなら、岬の〈娘〉と別れたりはしなかっただろうし…〈娘〉ではなく〈彼女〉を選んだその時点で、諸々の異常が、強引が、貪欲が、そして壊滅が…やがて。しかし論理的帰結だけは、しっかりと、せめて、と思うのだが、いずれにしろ〈娘〉のことは、今まで通りきっぱりと、後戻りなどはできない、決してまた、どんなに苦しくても、してはいけない。また、〈娘〉の将来を〈あなた〉が、いまさら、心配する必要もあるまい。きっと、新しい恋人と出会い、すでに、新しい恋人ができているかもしれない。きっと、出来ているに決まっている。一生待っている、と言ってはいたが、それは、十六歳の娘の言葉で…十六歳の娘の言葉ゆえに、とも思えるが…〈娘〉は〈あなた〉と一緒になりたがったが、〈あなた〉は〈娘〉を幸せにする自信が無かった。〈娘〉の求めているものを〈あなた〉は正確に想像できるが、きっと〈あなた〉はそれを〈娘〉に与えることができないだろう。〈あなた〉は結局、独り、つまり、孤独をのぞんでいるのだろうか…しかし、それなら、突き詰めれば…またまた…どん詰まりは、ヘリコプター、火口、降下、落下、変転、上昇、拡散…といったあの夢想が。心配なのは、それだけだ。はやく、そういった、人生の最後の最後を請け負ってくれる、何か株式会社みたいなものでもが出来てくれる、早くそんな時代になってほしいものだ。それなら、〈あなた〉のようなヘンチクリンな人間でも安心して人生に当たれるというものだが…

単純に考えれば、〈あなた〉は、いま、悦楽の絶頂にあるのかもしれない。〈彼女〉は、耀くばかりに美しいし、それに、申し分なく、奔放に振舞ってもくれる。溢れこぼれる微笑みからして、〈彼女〉もまた、色恋の絶頂にあるのかもしれない。
もし〈彼女〉が帰ってくれば、隣の続き部屋のドアに、クチッと鍵の音がするだろう。すると、〈あなた〉は、いつものように、ここ、ベッドのカーテンの陰で、急に、眠っている振りをするのだろう。そうしている方が、ずっと集中して〈彼女〉のことだけを感じることができるし、〈彼女〉だって、その方を好いている。平気で、思う存分、振舞うことが出来るのだ。
〈彼女〉は、きっと、鈍く口笛を吹いていることだろう。それは今しがた、レストランで、黒ビールを飲みながら聞いたばかりの曲かも知れない。〈砂に消えた涙〉かもしれないし、それとも…いや、それは、きっとアダモで、〈明日は月の上で〉に違いない。一、二度、〈彼女〉は、リフレーンのところを、低く殺した可愛い声で、口ずさむのだろうか。

A demain sur la lune, ア・ドゥマン ス・ラ・ルウナ

〈彼女〉は繰り返し繰り返し、憑かれたように、口ずさむのだろうか…それから再び、また鈍い口笛となり、ついには、もっと鈍い、歯笛…舌先を上歯と下歯の隙間のあたりに持っていって、息を吐きながら、音をゆるく出していくのだが、メロディを正確に吹くことは、もはや、不可能で…歯笛となり…しかし、また、急に憑かれたように、「ア・ドゥマン ス・ラ・ルウナ(明日は、月の上で)ア・ドゥマン ス・ラ・ルウナ(明日は、月の上で)」と口ずさみ、リフレーンに入るのだろうか、どうなのか…そうしながらも、〈彼女〉のことだから、着ていたソフト・デニムのシャツを、そのあたりに脱ぎ捨て…ブラジャーは、〈あなた〉と一緒の折には、常に、着けていない。パンティも、外出の際には、〈あなた〉の口への詰め物にしているので、着けていない…ノーパンティ外出の際は、勿論、スカート着用だが…なぜって、〈彼女〉はその分、留守中の〈あなた〉の〈彼女〉への想いが昂ぶることを心得ているからだろう…ジーパンを脱ぐ時は、すさまじい。まず、尻の部分をまくり出し、しばらくは、もぞもぞやっているのだが、最後は、足先に引っ掛かっている部分を、手を使わずに、力一杯、蹴り脱ぎするものだから、どちらへどれくらい飛んでいくものか、前もっては、見当もつかない…そして、そうしながらも、気分が少しでもよければ、口ずさむ歌にあわせて、弱く小刻みに、何かダンスのステップでもを踏んでいることだろう。壁に繰り抜かれた、アーチ型の、ドアのない…を通って、こちらへ、ベッドルームの方へ、ステップなんかを踏みながら…ルンバ・ステップかチャチャか…〈キサス・キサス〉なんかを口ずさみながら…〈彼女〉はベッドのレースのカーテンに、そっと指を一本引っ掛けて、ベッドの様子、中の様子、つまり、眠ったはずになっている〈あなた〉を…調べるだろう…ずっと不自由にして、わざと捨て置いた、物…まるで捕獲物みたいな、やや、大切な、まるでペットみたいな、〈彼女〉の、物…幾分精密に出来ている、つまり、物よりはやや高級に出来ている、物、あるいは、姫君のお慰みのお道具…ここで〈彼女〉は、眠ったことになってるはずの〈あなた〉の口に、囚われて、いま、半ばベッドに埋もれてしまっているカラカラに乾いた〈あなた〉の口に、はじめはほんの少しずつ、そしてやがては、徐々に熱を帯び、最後には、もうしたいだけ放題に、狂おしく、口づけすることとなるだろう…黒ビールの味がするのをかすかに感じ、やがては圧倒的な、一度嗅いだだけでも、もう病みつきになりそうな、〈彼女〉のあの痺れるような強烈な魅惑の体臭に襲われて…「長い長い間、ありがとう…可哀想に、囚われて、食事もしないで、あなたはあたしのことだけを、あたしのいない間、ずっとずっと考え続けていてくれたのね。まさか他ごとを考えたりはしなかったでしょうね。ただただ、あたしのことだけを…いつもいつも…ずっと…」
しかし、このあたりから、〈彼女〉も、幾分、何が何だか分らなくなってくる…つまり、〈彼女〉の、直情、が始まりかける。それは、〈彼女〉の才能ゆえの結果であり、〈あなた〉は、ただただ寛大さと忍耐をこそ、要求される。直情、といっても、殆どどうってこともない、たわいないものもある。たとえば、口づけとか、平手打ちとか、大通りの、群衆の中での…歩きながら、急に、狂おしく、〈あなた〉の首に片腕を巻きつけてきたかと思うと、そのまま唇に…人々の軽い野次を受ける恥ずかしさと、ごく微量のその野次への嫌悪感、そこへ〈彼女〉の唇のもたらす蕩けるような快感が、じんわりと混じり合い…一方、平手打ちの件に関しては、〈あなた〉が何か無意識のうちにでも、〈彼女〉のもしかすれば自尊心をでも、ほんの少し、傷つけたのだろうか、いきなり、ピシャリ、と全然不自然なところなどない、実に見事な平手打ちを…〈彼女〉は子供の頃から、背が高かったので、つまり、肉体的優位をもって、男の餓鬼大将共をぶん殴って、家来にして、育ってきたらしい。だから〈彼女〉の平手打ちは、ちょっとやそっとの生やさしいものではなくて、極めて強力かつ自然な、平然たる正真正銘の…並み居る人々の眼前で…人々は、まず、〈彼女〉の平手打ちに度胆を抜かれ、そしてそれ以上に、〈あなた〉の無抵抗かつ無反応に驚いたことだろう…それは、当然である。間違ったのは〈あなた〉であり、悪いのは〈あなた〉なのだから。〈彼女〉は、かんかんに怒って、身を翻し、大股の早足で、去って行っている。しかし〈あなた〉は、そこに棒立ちしたまま、なすすべも無く、真っ青な顔色をして、去り行く〈彼女〉を凝視したままで、ただ呆然と、立ち尽くしているだけだ。
これらの特異な現象は、きっと、〈彼女〉の脳の、脳味噌の、かすかな震えから…非常に好調に仕事のはかどった後の一瞬の隙間から、無意識のうちに、突発的に…ちょうど蓄積しすぎたエネルギーを地殻が震動によって、不都合なエネルギーを折々震えでもって、発散するみたいに…勿論それは〈彼女〉の欠陥といえば欠陥だろう。しかし極度に優れた脳髄のほんのたまさかの調整作用、それは自然の息吹であり…〈あなた〉はそれは当然であり、仕方ないことであり、これに耐えることは、〈あなた〉だけに可能な〈彼女〉への理解だと思っている。しかし問題は、平手打ち程度で収まってくれればの話である…〈あなた〉は、いまでは、左の耳の鼓膜が破れてしまっている。音が、ドブンドブン、聞こえる。いつも海底に素潜りしている時のような感じなのだ。手では、指の骨が一本折れて、歪んだまま不自然に繋がっている。医者へ行かず、自分自身だけで治したからだ。二、三日の間というもの昼も夜も痛みに耐え、その間ずっと水で冷やして熱をとるのに大変苦労した。すべて自家製の山勘療法で治したのである。もし、ドタマも、MRIかCTスキャンにでも突っ込んで細部まで逐一診てもらえば…何らかの異常が…かもしれない。しかし〈あなた〉は医者へは行かない。そんなことをして、ほんの少しでも、〈彼女〉の名誉を汚すような過ちを犯す危険に近づきたくないからだ。〈あなた〉は、とことん、〈彼女〉が好きだし、そのような直情は、単なる優れた〈彼女〉の脳の極々微細な必要不可欠の微調整機能だし、〈彼女〉の美と魅力をもってすれば、この〈彼女〉の直情も…ぶつ、蹴る、しばく…次いで、突如、天女のような優しさが訪れ…かと思うと、しかしすぐに…鞭が、足蹴が、殴打が…これらが交ざり続き反復し…ますます強度の…その場では、〈あなた〉だとて、考えもなく、苦し紛れに、「助けて…」と言いたくなる。特に…しかし、冷静に判断すれば、もし本当に〈彼女〉が好きなのならば…何よりも、これは〈彼女〉の息吹きなのだから…
やがて〈彼女〉の囁きが…恥ずかしくて、〈あなた〉には、いつが来ても口にはできないであろうような言葉の数々が…しかし〈彼女〉がそれらを口にすると、不思議にも、なんと可愛く愛らしく魅惑的に聞こえることだろう…〈あなた〉はその魅惑で、もう殺されそうな…気も遠くなり、すっかり狂ってそのまま死んでしまいはしないかと危ぶまれる程に心地よい…この一瞬…〈彼女〉ならではの、この一瞬こそが、これあるが故に、、、幾千刻の苦悩も…
したがって、〈あなた〉には、いま、何も思い煩うことなどないのかもしれない…ただただ、〈彼女〉に身を任せ…
〈彼女〉ゆえに…囚われて、〈あなた〉は、いま、悦楽の絶頂に…いるのかも…ただもし、明日という日さえなければ…

〈あなた〉の苦悩は、死後、死体が残るということだ。自殺後の死体が、いかに多種多様な侮辱を蒙るか、死後だからといって、決して油断をしてはいけない。一体に自殺者は、追い込まれてから、突発的に、否応なく、なりふり構わず、我武者羅に、われを忘れてやるものだから、自殺後の、自分の死体が、どんな取り扱いを受けるのか、人々のどんな視線に晒されるのか、如何なる屈辱的言辞で云々されるのか…そこまで予想していない場合が多すぎるのではないか、あまりにも無防備である。できることなら、〈あなた〉は何かしてあげたいくらいである。まず人目から、野次馬どもの、あのニヤニヤから、好奇の目から、…しかし、その程度のことではなくて、死体自体が、もっともっと酷い辱めを蒙る場合だってあるのだ…そのことを思えば、気分は暗澹たるものとなる…なまじ食人鬼(じきにんき)のお話などは、まだまだ清潔で美しいお話…かも、なのだ、とすら思え…現実には、もっともっと暗く、悪辣で、醜悪陋劣な場合だってあって…だから、無防備では絶対いけない…それは、〈あなた〉には、自殺者の一種のだらしなさ、とさえ思える。やはり、前もって、冷静に、厳密に、暇をみて、折をみて、徹底的に考えておくべきだ…死は、ちょっと見には、素振りも見せず、いつか、どこかで、みたいに鷹揚に見えるのだが、そのくせ、実際には、最も確固としたものとして、抜け目なく、例外なく、刻々と…だから、死は、完全に、いま、ここの、ど真ん中に位置しており、…決定的に、クソ面白クモナイことだ…しかし、手抜きをすると、夥しい屈辱が…何をされるか知れない。少なくとも、死人に口なし、だもの…やはり死は、自分で決するに越したことはあるまい…
適当な火口を(活火山の)選択すること…カメラを一台(まさか安物のインスタントカメラでは無理だろう、それではヘリコプターの操縦士が変に思うことだろう、見破られたりしてはいけない)…だから、ちょっと大き目の…まあ、コケオドシだ、ガラだけでかい、中身は何でもよいのだ…足は、ボロぐるま、海は、ボロ舟、どのみち、すべて乗り捨てなんだから、それっきりだ、相棒どもよ、懐かしきポンコツ共よ。(いらいらの際、幾度、彼らには救ってもらったことか。最低一日五回くらいは、彼らに救ってもらってきた。世話になった。…陸を行き、海を滑り…心地よさを、喜びを…にもかかわらず、〈あなた〉は、時には、腹いせのためか、彼らを酷使し…でも今は、もはや、相棒共よ)悪く思うな。今こそ別れめ、いざさらば、なのだ、から…
ヘリコプターのチャーターの費用と…何よりも、操縦士の心に傷を残さないこと、これが難しいかも知れない…この点〈彼女〉は、殆ど説明無しででも、(話題としては嫌悪するけれども)いざ実行となった日には、〈あなた〉の自由を一切束縛はしないだろう。勿論、一文(存分に愛を込めた奴を、何と言ったって、最後の最後となるんだものな、しかも、この世で一番好きだった人に宛ててだもの、快楽を、あの悦楽を、共に、というか…まあ、相棒というか、兄弟分というか、アネゴか、まあバッチシ、姉御だろう…長々としたものではなくても、しっかりとした奴を)一文〈彼女〉に残すこととなるだろうが…〈彼女〉は、全く充分に、〈あなた〉の行動を納得してくれることだろう(推奨、賛美、とまでは、勿論、いかないまでも…すこぶる冷徹に受け止めてくれる、その点は、安心だ…)問題は、しかし、操縦士だ、直前、しかも、ほとんど眼前で、となるからなあ、飛び降りが、つまり、死が…これはいけないかも、だぞ…操縦士は殺人容疑で、うまくいっても、最低一度は取調べを受けることとなるだろうから…実際には、一度や二度では、到底…これは迷惑を掛けることとなる…自分のことで、他人(ひと)に迷惑だけは、いけない…遺書を要所要所に残しておく…これで操縦士が犯人だという嫌疑だけは、容易に晴らすことが出来るだろうか…しかし、操縦士には、まだまだ、相当、いけない、いわれのない迷惑を、掛け過ぎる、操縦士の心に傷を残さないために文章でもって説得するといっても、これは相当困難な…まったく自信がない…操縦士の人生にほんの少しでも、操縦士自らが望みもしない影響を与えるという、そのよう権利は、〈あなた〉には、完全に無いのだから、持ち合わせていない…第一、徹頭徹尾、ダマシ、だからな…やることが、ちょっと汚い…操縦士は、ただ、火口の写真撮影のためにチャーターされたヘリコプターの…それだけのことだ、ところが、偽カメラマンが、火口上空のヘリコプターから、火口目掛けて、落下する、などいうことは前もって何も知らされていない、しかも、騙されて、操縦士のメリットとなることは鐚一文(びたいちもん)もなく、一方、心に残るであろうデメリットの方は…これはもう計り知れない…(何の罪も無い人の心に、誤解や、不快や、奇怪の念を与える権利は、〈あなた〉には…)こりゃいかんぞ、完全に、愚か者よ…オロカシコでアナカシコ…
ほんの少しだが、いま、空腹感を覚える。〈彼女〉の留守に、こんなことに気をやっているようではいけない。実に実に、ハシタナイことだと思う。…それにしても、またまた、彼女のおみやげは、ヒレカツなのだろうか。確かに、ヒレカツは好物だ。美味しい。アルコールにもよく合う。しかし、たまには、ソーセージなども。国産のものは不味くて食べられないけれど。朝鮮とか中国とか、ドイツ、オーストラリアのものも美味しかった。ニンニクのしっかり効いた奴。輸入禁止になっているのだろうか。生卵なども、一日十個でも食べられるけれど、〈彼女〉はマムシとかスッポン・エキスを買ってくることもあるが、効果の方は、いざ知らず…
操縦士付きヘリコプターを諦めるとなると、自ら操縦する以外に手がなくなるだろう。免許、それに、ヘリ…気の長い話だ。それまで、はたして…もつのかどうか…ヘリは糞ボロを一台、これは容易に手に入るだろう。適度に保険も掛けておき…そのまま突っ込んでも、特定個人に迷惑を掛けるようなことにはなるまい。…免許を取るための費用、アメリカでとる方が、日数はかからないかも。アメリカは、あまり形式ばらないから。規制が緩いというか、自由が多いというか。何しろ、スーパーで、自家用機の組み立てキットを売ってる国だからな。自由ほどいいものはない。…それにしても、相当な費用が…相当長期にわたって、釜が崎、立ちん棒、しんどいだろうな。随分単調かつ不自由な時間を強いられるだろうからな。時間を、存分に、しこたま分捕られるぞ。来る日も来る日も、どうせ、ホンセン、だろう、ギリシャ船籍って、けっこう多い…船底の、粗鋼の、鉄粉の…白色パンツの褐色の鉄錆色へのみるみるの変化が(染め込みだわ、まったく。…からだの他の部分は裸だからいいようなものの。一日一枚は、最低、パーになる。…毎日毎日だから、おびただしい量のパンツが、…あれは、パンツつぶしだ、実際…作業手袋は十倍もとより破損する…)ここまで苦しみに耐えねばならないのなら、いっそのこと、全てを諦めて、つまり、ヘリも、火口も、本当はどうでもよいのでは…ただ、死体を人目に晒さない、死体を焼き、灰にする(勿論、窮屈な焼却炉はいけないし…オープンなもの)灰を、宇宙に向かって拡散できること、かりにも、一旦、〈あなた〉の肉体を形成した分子は、元素は、永遠に宇宙を漂わねばならない、つまり、ゴミの山に永遠に埋もれてはならない…オロカシコ(愚人)に霊は無い。ただし、オロカシコにも馴染み深い肉はある、この肉こそが、この肉灰こそが永遠に宇宙を漂い(もし、そうであれば、死んでも淋しさを感じないもの、永遠の肉灰雲水になったようなものだ…つまり、風に吹かれて、だし、大空の鳥のように、だし、そよ風とわたし、なのだ。…上昇に上昇を重ね、なおも永遠に上昇を重ね、遂には、果ての果てでは、もしかすれば、アンドロメダ姫にだって、会えるかもかも…なのだ)したがって、やはり、活火山の火口へ、真っ逆さま、という条件だけは、必要不可欠かも、かな。それとも…なぜって、もしそうでなければ…やはり必要なのは、〈あなた〉の肉の高熱分解、分子化、原子化、粒子化、上昇拡散、宇宙への、果ての果てへの(ハイテクを駆使すれば、これらに必要な装置など、どんなに完璧なものであれ、何の苦も無く(朝飯前に、屁の河童で)製作可能に違いないのに(採算が取れない?)…もしそうなれば、火口も、ヘリも、屁ったくれも、もはや、…)〈彼女〉も一緒なら、どんなにいいことだろうと、思うかもしれないけれど、それは〈あなた〉の了見違いだ。甘えてはいけない。永遠の孤独こそが、〈彼女〉を永遠に激しく求める原動力なのだ。愛したいのなら、離れなければならない。このことは、絶対に忘れてはならない。なぜなら、問題なのは、愛だもの。…それにまた、離れても、永遠に忘れることなどできないだろう。あの面影も、あの薫りも、あの感触、あの微笑み…それこそが、何よりも、…しかし、それは、離れてこそ…なのだ。愛は離れてこそなのだ。…しかも、愚人(オロカ、オロカバエ、オロカシコ)にとって、愛する以上に、価値あるものが何かあるだろうか…即ち、〈あなた〉の場合に限って言ってみれば(つまり、オロカシコ即オロカバエ(愚か生え)即愚人)の場合、肉灰雲水こそが、永遠の理想、究極の存在形態、完璧な…となるのと違うのだろうか…
〈彼女〉は〈あなた〉は馬鹿だと言ってよく怒る。〈あなた〉が言葉を知らないから、話しようも、教えようもない、と言って、よく怒る。確かに、〈彼女〉は、〈あなた〉の知らない、多くの美しい詩語や意味の分らない言葉(哲学用語?)やむずかしい外国語や…を〈あなた〉よりはずっとずっと多く知っている。その点、〈あなた〉は〈彼女〉を尊敬している。そして、尊敬しているのだから、少しは   〈あなた〉のことも理解して、やさしくしてほしく思うのだ。(〈彼女〉には、〈あなた〉は男なのだから、要するに女よりも賢くなければならない、といった古い固定観念にとらわれたところが、あるのではなかろうか。これは、完全な〈あなた〉の誤解なのかも知れないけれど、しかし、もし本当に〈彼女〉がそうであるとすれば、それは〈彼女〉の偏見というものであって、…珍しくも〈彼女〉らしくないところだが…(〈あなた〉の向上を切に願ってのことからかもしれないのだけれども、つまり、励ましの意味を込めての…叱咤激励、か)ところで、男と女のカップルが、かりに百あるとすれば、五十組は男の方が賢い組があると思うが、残りの五十組は、おそらく反対なのではなかろうか…〈あなた〉には、そう思える。それらの組では、女の方がカップルを組んだ男よりも賢いのである。これは、純粋な脳の働きにおける場合であるが…そして、これらの確率は、単に脳だけではなくて、他のあらゆる能力の分野の比較において、…たとえば、勇気のレベルでの比較…とか、正義感のレベルでの比較…とか、あるいは、神経系統の反応速度とか、要するに、あらゆる分野で…最後には、腕力すらもが、案外、実際には、fifty-fifty、になっているのではなかろうか、圧力無しの、本当に実力で、フェアーに、遠慮無しで、トコトン殴り合いでもをやらしてみれば。前後の因縁はすっかりぬきにして、だ…だから、本当は男も女もあったもんじゃないのであって、頭の強い方が、そのカップルの、頭の分野のリーダーシップをとれば、それはそれでいいのであって、勇気の強い方が、勇気の分野でのリーダーシップを…ところで、実のところ、詩語や哲学用語に馴染む位なら、〈あなた〉などは、むしろ、小船を操って、潮風を存分に吸って、頭から舳の切る水しぶきをかぶってでもいる方が、よっぽど…すると〈彼女〉は言うだろう、両方をやればいいのよ、択一的問題ではないでしょう、馬っ鹿馬っ鹿しい…ところが〈あなた〉などは、おそらく、片方は生まれつき好きなのだが、もう一方は、なかなか好きにはなれない…しかし、詩語、哲学用語が好きになれない分、つまり、頭が弱い(オロカシコの)分、〈彼女〉に身をもって尽くそうと思っているのだから、そこのところを…だが、なかなかその点を、〈彼女〉は、理解してくれない。〈あなた〉は〈彼女〉が少しでも快適にできる様にと、これでも、それなりに…ところが〈彼女〉はといえば、特別、〈あなた〉が考えて身を尽くしてあげていても、そんなものは、もともと当たり前のことであって、無意識のうちにも、〈彼女〉の美しさの代償とでも思っているのだろうかと疑りたくなる。…仕事もはかどり、疲れがぼつぼつ…と見受けられる頃になると…〈あなた〉の愚かしさがもとで、〈彼女〉の気分を損なうのが原因とはいえ、やがては、〈彼女〉の直情が…そして、このあたりのことになると、〈あなた〉も、もう何もかも分らなくなってくるのだが、何をどう理解したらよいのか、…勢いというものだろうか…ただ、はっきりと言えることは、だんだん〈彼女〉から受ける苦しみが増えてきていること、同時に、それに伴って、〈彼女〉の魅力が、だんだん、増し続けてきていること、そして、もう耐えられなくなって、そして、いよいよその時には…
〈あなた〉は、本当は、二十年も、三十年も、ずっと〈彼女〉のそばにいたい。しかし、実際には、長くて後五年だろう。三年かもしれない。いや、一年でも長すぎるかも。〈彼女〉の機会というものを、逸するようなことがあってはならない。いい人に出会うべきだ。しっかりとした、〈彼女〉にふさわしい人と。勿論、〈あなた〉としては、それには、複雑な、苦い、時には死にたくなるほど苦しい気持ちが付きまとう。嫉妬、というものなのだろうか。…しかし、〈あなた〉という男が、正常な生活を営めない、根っからの遊び人(グウタラ、ナマクラ)であるということは、〈彼女〉よりも〈あなた〉自身がよく知っていることだし、二、三年なら〈彼女〉の相手として、少しは刺激にも…〈彼女〉自身は、〈あなた〉のことを、肥料とか肥やし、といった言葉で呼んでいるが…「…は、あたしの肥やしよ」口の悪い女だ。実際、ひとを野壷の糞溜めの糞か何かのように思っている。しかし、それでいいのかも…だ。何でもよい。〈あなた〉は少しでも〈彼女〉の足しになれればそれでよい。後しばらくなら、〈彼女〉の刺激になるかもしれないが、それ以上は、かえってマイナスになるかもしれない。…ああ、しかし〈彼女〉なしで、毎日、毎日の、幾度も幾度もの、魅惑の深みへの、フィリピン海溝よりもなお深い、美の深奥の震えの、沈潜なくして、果たして生きていけるのだろうか…もし急に転換したら、まるで深海魚が日の目でも仰ごうかと、間違って海面近くまで浮上して来た様なものであって、圧力の釣り合いが狂ってしまい、内臓破裂を起こし、もう生きてはいけなくなってしまい、完全に…〈あなた〉は、もうすでに、〈彼女〉の美の魅惑という猛毒に当てられてしまっているのかも知れない。身動き一つも取れないまでに、中毒さされ続けてしまっているのだろうか。…といった、苦い想いが、いま、…

鍵の音だ。〈彼女〉だ。やっと、いま、この苦い囚われの想いから、逃れられるかも知れない。
ドアが開かれようとしているのだろう。
メイドは、すでに、去って行ってしまっているのだろうか。掃除機の音は、全然、していない。もしそうだとすれば、いままで、〈あなた〉はもの想いに、あまりにも没頭しすぎていたのかもしれない。掃除機の音の変化を、つまりメイドの動向を、このところ、まったく感知していなかったみたいだ。おびただしい油断としか言いようがない。これでは危険極まりない。それにしても、カーテン、ばさっ、即、メイドの悲鳴、「ウヒャッ」はもとより「キャッ」または「ヒヤッ」を聞かずじまいで済んだということは、これは、ただただ、ラッキー、としか言いようがない。それにしても、実に実に、気疲れはした。もっとも、カーテンばさっ、皆無、に関しては、あるいはきっと、〈彼女〉の配慮があったのかも。
薫りは、〈彼女〉だ。隣の部屋から、〈彼女〉独特の体臭のきつい心地よい薫りが流れてくる。〈彼女〉の艶やかに黒光りのする陰毛が、いま、汗で、うっすらと濡れてしまっているのだろうか。〈彼女〉は〈あなた〉が〈彼女〉の汗の薫りを、信じられないほどにまで、ひどく好いていることをよく知っているので、だからバスルーム、つまりシャワーへは直行しないで、すぐに、直ちに、ここへ、ベッドへ、やって来てくれることとなるだろう。何か口笛なんかを吹きながら、ゆるくゆるく、キューバン・ルンバのステップなんかを踏みながら…
しかし、それから後のこととなると、〈彼女〉がどのような振る舞いに出てくるか、その時その時の〈彼女〉の気分次第なので、一気に決め付けてかかることは困難だろう。それでも、あえて、ある種のパターンにしたがうなら、つまり散歩中に、外で何か気に入らない、不愉快なことにでも出くわした後だったりした折には、(しかも、その前段階として、特に仕事がうまく捗っていない時などには)、留守中ずっとにわたる、〈あなた〉の〈彼女〉への愛の想い…その努力にもかかわらず、〈彼女〉は〈あなた〉への理不尽な振る舞いに出てくるかもしれない。勿論、そのような折には、口笛、もなければ、キューバンどころか、ただのルンバ・ステップそれ自体が、すでに、ありはしないだろう。それらは、〈彼女〉の精神の絶好調の折のみのことなのだから…つまり、長い間ずっと、いまだにベッドの上で身動きのとれていない、後ろ手に縛られた、足も足首のところで縛られている、しかも、背骨を反らして手足直結に縛られている、その〈あなた〉の身を、なおも、苛みにかかってくるのだろうか。・・殴る、蹴る、の場合もあるが、一番多く殆どの場合は、バッグから、すでに、取り外されている、黒い、細くて長い革紐、ないしは、〈彼女〉の幅狭の黒いベルトで、〈あなた〉を鞭打ち始めるだろう。このような時、〈あなた〉は、すっかり眠った、あるいは、すでに死んでいることになっているので、決して、目を開いてはいけないのである。
その間、〈あなた〉は何の快感もなく、全身、いまだに縛られたままで、純然たる〈彼女〉の物となり、違和感と痛みだけを、ただただ、ずっと、耐え忍ぶこととなるだろう。このような折、〈あなた〉はやがて必ず訪れる〈彼女〉の直情の急変、つまり極度のやさしさへの変転を予想してはいるのだが、それでも現にある苦痛には、どうしても我慢し続けることが出来なくなり、最後には、唸り声(猿轡のため言葉は発せられない)でもって、〈彼女〉に許しを乞うこととなるのだろう。しかし、それでも、〈彼女〉はなかなか許してはくれないだろう。
しかし、結局は、いつものように、〈彼女〉の直情は、突如、逆進を開始し、〈あなた〉の肉体への無関心からは関心へ、苛みからは慈しみへ、そして、憤怒の念からは欲情の念へと、変転が…
ここに到って、〈彼女〉は〈あなた〉への縛め…それは、〈彼女〉のガウンのベルトだったり、〈彼女〉のブレザーのシルクのネクタイを結んでつなぎ合わせたものだったり、ときに、仔犬用の、撓い易い極細手の鎖だったりするのだが…留守中ずっと我慢していたその縛めを、いま、やっと解きに掛かってくれることとなるだろう。変色し、がたがたに窪んでしまった〈あなた〉の手首と足首の肉に、〈彼女〉は狂おしい口づけを始めることとなるだろう。猿轡が…鞭打ちの際に、あたりに発せられる〈あなた〉の悲鳴を防ぐためのものであるが…あまり、悲鳴が辺りに漏れると、周囲の者達が不安がり、そのことを通知されたメイド達が保安のため仕方なく、覗きに来ることがあるのである。…猿轡が…全然されないままでの時もあるし、タオルでされることもある。(タオルの時は、途中でよく外れてしまっている)…〈彼女〉の外出は幾分長目なので、そのような折には、外れている確率は、タオルの場合、ほぼ百パーセントに達していることだろうが。…口への詰め物は、〈彼女〉の薄物の、パンティの折もある。勿論、すでに、〈彼女〉の肌に馴染んだものでなければ…もし、その点を〈彼女〉が間違いそうになった折などには、〈あなた〉は出来るだけ懇願することにしている。なぜなら、馴染みのあるものとないもとでは、〈あなた〉の心の和みの程度が、全然違うもの…しかし、〈彼女〉は、意地悪くも、そのような〈あなた〉の願望をわざと無視する場合もあり、そしてそのような折には、不運にも、真新しいパンティが…。口への詰め物のパンティが取り除かれて、初めて、〈彼女〉は〈あなた〉の口への、思いっ切り充分な口づけが出来ることとなるだろう。それは非常に狂おしく、しかもその狂おしさを通じて、〈彼女〉のしっかりとした、〈あなた〉への誠意が伝わってくるような、そのような口づけであるのだが…〈彼女〉に随分ひどい目にあわされた後でさえ、〈あなた〉は、この口づけ一つで、〈彼女〉を再び心から信頼できるようになってしまう…それは、そのような体(てい)の口づけで…
〈彼女〉の薫りが漂ってくる。
いま、〈彼女〉の四肢の動きが空を切る微かな音が…すっかり眠ったことになっている…すでに、死んでしまったこととなっている…その〈あなた〉の耳に、弱く鈍く、近づいて来るのがわかる。
〈彼女〉の身が切る、ささやかな風が、いま、〈あなた〉の裸の肌の上を流れて…
それにしても、これで、囚われの、悪しき想いも、しばし、途絶えることとなるのだろうか、どうなのか…

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2012年2月27日 (月)

土呂夢小説集 Ⅳ の 立ち読み

古娼館幻情(こしょうかんげんじょう)
                        
           杏 土呂夢(あん どろむ)

     .

 〈踊り部屋〉という、聞き慣れない言葉を初めて耳にしたのは、偶然立ち寄った、裏通りの貧弱な不動産屋での事だった。間借りの件に関して、不動産屋の主人に、おおよその予算を言え、と言われたものだから、わたしは素直に、これこれくらい、と言ってみると、「そんなもんで、今日日(きょうび)、犬小屋も借りれんのじゃないか、犬小屋も」と言われた。金を持っていない、と言うことは事実なのだから仕方ないのだけれど、そこまで言われなくても、と思っていると、不動産屋の主人は、急に勢いづいて、「あります、あります、ありますよ」と言って、今度は、独り、笑っているのである。「お客さん、あるのです、完全にあるのです」
 何も、〈完全に〉でなくてもいいのだけれど、要するに、ただ、それなりに、あってくれさえすれば、単なる間借りなんだから、こちらはそれでよいのである。ここで、不動産屋の主人は、初めて、〈踊り部屋〉と言う言葉を口にしたのだが、後はもう、何を喋っているのか、一言も聞き取れないほどに、笑い転げているのである。どうしてそれ程に、笑いを誘われるのか、勿論、わたしには知る由も無い。
 なに、格段に安い部屋が無ければ、夏の間は、公園ででも、…野宿でも…と、わたしは思っていたくらいだから、どんなものでも借りよう、野宿よりもましだから、とも思えたが、逆に、気に入らなければ、なにも、わざわざ金など払って借りる必要など…とも思えた。
 もっとも、野宿して、深酒などやって、夜露に濡れたまま眠り込んだりしていると、即昇天、と言った事態になることも、まま、あるらしい。アルコールと夜露。呼吸器に、それくらいのことで、どんな異変が起きるのかは知らないけれど、やはり何か急性の肺炎でもが起こるのだろうか。だから野宿も危険なのであって、そうそう気楽に、昇天しても如何なものか、とも一応は思えるのだが、よくよく考えてみると、それも一つの、かなり安楽かつ簡潔な死に方ではある、とも思えてくる。独り身、天涯孤独人(びと)、の想いとは、一切が自在であるだけに、あるいは出鱈目至極なものであることも、時として、あるのであろうか。
 〈踊り部屋〉と言う言葉を聞いて、最初に浮かんだイメージは、純白の衣装をまとった少女のバレリーナが爪先立って踊っている姿である。ドガの踊り子の絵なども、相当実物とはかけ離れてしまった姿でではあろうが、うっすらと、わたしの脳裏に浮かんで来たかもしれない。〈踊り場〉という言葉は自然だが、〈踊り部屋〉とくると、これは、ちょっと、一ひねり、捻りがきいているみたいで…。
〈笑い転げ〉の不動産屋の主人に案内されたのは、古びた町並みの、古い館だった。
 「昔の娼館だ」不動産屋の主人が言っている。正面は、二階建ての、大きい古い模造洋風のつくりだが、ほとんど前面は半壊程度にまで傷みが進み、浮き彫りのあるセメントの外壁は、所々でひび割れ剥げ落ち、木製の窓枠は歪み、窓ガラスは割れ(ガラスはすべて、鮮やかな色のついた、ステンドグラスみたいだ)、入り口のドアは動かなくて常に半開きの状態みたいで、正面から見る限り、これは、まともな人間の棲家というよりも、むしろ、なにか化け物館、といった体だった。なるほど、不動産屋の主人が笑い転げたのも幾分理解できるように思えてきた。「相当なもんですね」とわたしが言うと「骨董もんです」と不動産屋は言って、後は黙ったままだった。どうやら、しゃべると、また、笑いが込み上げてくるので、それを我慢できるようにと、わざと口を控えているといった風に、わたしには思えた。
 不動産屋の主人は、わたしを〈ヤカタ〉の管理人にバトンタッチすると、「末永く」と言って去っていった。『末永く』?何か心に引っかかる、気になる挨拶の言葉だった。
 〈踊り部屋〉というのは、階段にある〈踊り場〉という言葉から来たもので、部屋というよりも、本来は、広い廊下みたいなものだ、と管理人はわたしに説明した。また、部屋と部屋を結ぶ広場みたい、とも言える。要するに、間代が格段に安いのが取柄だ、ということである。そこで管理人は、わたしに部屋を見せもせずに「それでどうする?」と訊くもんだから、「見ないことには」と言うと「見たところで、さして見栄えはしまい」などと言っている。見栄えがしようが、しまいが、わたしの知ったことではない、と思っていると、管理人は、暗い廊下の、とあるドアをノックした。管理人は「街の女、街の女」と押し殺した声で、わたしの耳元で、囁いた。何のことだか、わたしにはさっぱり解らない。
 ドアが開き、和服姿の若い女が微笑んで、立っていた。管理人は、まるで仁義でも切ろうかといった体で、上体をやや前かがみにし、右手の平を、ちょっと、突っ張らせ反らし、オッス、と言った。管理人なりの、挨拶のつもりなのだろう。そして、まっすぐ、女の部屋の廊下を、どんどん勝手に進んで行った。わたしは黙って、管理人の後に続いた。右側は全面壁だったが、左手には女の部屋々々が並んでいるみたいだった。しかし、わたしは、あまりじろじろと見るのは失礼だと思い、明るい左側はほとんど見ずに、前を行く管理人の背中だけを見て、くっ付いて、進んだ。
 正面にドアがあった。管理人はそこへ入ろうとしている。その時、わたしの背中が、ポン、と手のひらでたたかれた。びっくりして振り向くと、さっきの若い女が、ニッコリ、微笑んで立っていた。これは、このおんな流の、挨拶の仕方なのだろうか、とわたしには思えた。
 女の部屋を出て、次の部屋に入った。ここがどうやら、〈踊り部屋〉みたいだった。だだっ広い、薄汚い、薄暗い、…窓が一つも無いみたいだ。このことを管理人に言ってみると、「その通りだ」と言った。そして、「その代わり、天窓だ」といって、上を指した。確かに、ずいぶん高い天井に長方形のかなり大きい(二メートル掛ける三メートルくらいはあろうか)天窓が付いている。ガラスはステンドガラスで、図柄は、なにかアヤメみたいだった。すっきり伸びた葉の部分は真緑で、花の部分は真紫だった。ほかに黄色や紅色や…色はすべて鮮明で、艶やかに光っている。(部屋があまりに暗いから、そう感じられるのかもしれない)葉にも花にも、黒い線の縁どりみたいなものが見えるが、それはきっと、模様の一つ一つのステンドグラスを支えている銅か青銅か真ちゅう製の金属の枠型なのだろう。「アヤメですね」とわたしが言うと、「ズバシ」と管理人は言ってから「アヤメは、五月、かきつばた…萩は八月、十月もみじ、六月牡丹で、猪鹿蝶(いのしかちょう)…一はインケツ、二はニタコ、三はサンタで、四はシスン、…七はナキメで、八ボウズ…十(とう)は、とうとう、ブッツンこ」と歌うように言っている。何のことだか、わたしにはさっぱり解らない。
 天窓と言っても、光量は少なく、きっと、天窓の上も、薄暗い(あるいは、ここと似たり寄ったりの)部屋になっているのかもしれない…あるいは、天窓の周囲には、木の手すりの囲いなんかがしてあったりして…
 長方形の部屋の四つの壁には、四つのドアがあった。残りの三つのドアも、いま、わたしが通って来た女の部屋のドアとそっくりである。わたしがこれらのドアを、じろじろと見比べていると、管理人が言う。「これらのドアの向こう側には、この〈踊り部屋〉のトイレとか、シャワーとか、バスがあると、あなたは思っているのじゃありませんか?もしそうだとすれば、それはもう、大変な、ほとんど決定的な誤りを犯していることとなりましょう。つまり、今と同じです。今通ってきたでしょう、〈街の女〉の部屋…北の間…あれと同じです。同じような部屋が、これらの四つのドアの向こうには広がっているのです。東の間には、すなはち、十六歳の女子高校生、下宿している、母親といっしょに…南のドア、あれ、あそこは、自称女流画家と自称詩人、〈転覆〉が同棲…西、こいつ、このドア、こりゃもう、〈計算屋〉、またの名は〈ニセ医者〉が巣食っている。いわゆる、内縁の妻、とですな…もう内縁だらけですな、どの部屋も…要は、この部屋、〈踊り部屋〉には、バス、トイレ、シャワー…皆無、在るのはこの、備え付け、固定のベッド、箱寝台だ、これだけ…」
 部屋の一つの角に、高座になっている所がある。大きな長方形の木箱の上に畳を敷いたようなものである。頭部は棚になっており、傘無しの裸電球のスタンドが置いてある。他には広い部屋中何も無い。管理人は寝台の畳の一隅を力まかせに持ち上げ、その下がどうなっているのかを、わたしに見せ、説明した。太い竹(孟宗竹?)を半分に割って、その竹の背を上にして敷き詰めているのである。バンブー・クッション、ないしは、バンブー・スプリング、と言ったあんばいである。「…遊女のベッド」ハッハッハッハッ、と甲高く管理人は笑った。「あなたにはイマジネーションというものがありますか?イマジネーション…さて、このベッド、寝台か、箱寝台…何十年も何十年も何十年もの間…夜毎、朝毎、昼毎…遊女の寝台…」ここでまた管理人はさっきと同じ甲高い笑いを続けた。そして「人間って生物は極めて不自然な生物です。早晩、きっと絶滅するでしょう」と言って、知らん顔をしている。平気なものである。
 壁は元々は白い漆喰仕上げだったのだろう。今では黒く煤けてしまっているが。床とかベッドの木部は極めて上等の硬質の材質で…もしかすれば、チーク材(?)で…天井にはステンドグラスの明り取り…不動産屋の主人が言った通り、なるほど、ここは骨董の世界である。人の住む部屋には思えない。しかし、〈犬小屋並の予算〉からすると…しかし、野宿をすれば、もっと…しかし、野宿は…。
 わたしが決めかねていると、管理人は、それを見て取って、食事を二食付けましょう(勿論実費は必要だが)…と言う案を出してきた。外食費のことを考えてみると、これはもう完全な廉価、底値も底値、とわたしには思えたのである。それにしても、わたしの持ち金からすると、あと半年の命だろうと思えた。半年分、わたしは、管理人に前払いした。そうしておく方が、自身、気楽なように思えたからだった。しかし、実際に払ってしまうと、まったく、この世もこれっきし、になるような不安を覚えた。「確かに」と管理人は、改まった口調で言って、半年分の前払いを受け取った。しかし、領収書は、ついぞ出そうとしなかった。荷物はいつ引っ越して来てもよい、と管理人が言うから、荷物皆無の件を告げると「あなたは実に愉快にできている方だ」と言って、一しきり甲高く笑い、感心して見せた。「オケラ?」と訊いてくるもんだから「ほぼオケラ」と答えると、また「常態オケラ?」と訊いてくる。仕方なく「まあ常態オケラ」とわたしが答えると、管理人は、しばらく、笑い止まない。わたしの持ち物は、目下、いま着用しているランニングシャツとトランクス、同じく、いま着用済みのブルーのデニムのズボン一本と腰にぶら下げているタオル一本、つまり、わたしの両手は、つねに、自在なのである。夏場はこれで結構いける。特に無銭旅行でもやろうか、とでもいう日には、身軽さが一番である。泳ぎたい川があれば泳ぎ、泳ぎたい湖があれば泳ぎ、泳ぎたい海があれば勿論泳ぐ、・・・焼けた石の上に干して置くと、洗った衣類は泳いでいる内に、すべて、からからに、乾いてしまう…。
 管理人が去り、わたしは部屋に一人残った。窓が無く非常に蒸し暑いので、ランニグシャツを脱ぎ上半身裸になった。しばらくの間、飯場等で肉体労働をしていたので、肩にも胸にも腕にも、キンキンに筋肉が付き、ランニングシャツを脱ぐ時には、そこここで筋肉が突っ張り、まるで他人の体にでも触っているみたいな感じである。肉体などと言うものは、わたし自身を形成する最も変わりにくいものの一つだろうと思えていたのだが、それはなにか誤りみたいで、ものの二週間もあれば、結構変化するものの部類に属するのではなかろうか…と最近では思われる。
顔でも洗おうか、と思ったが、考えてみると、ここは、つまりこの部屋は、かなり、不便だ。どこへ行くにも、通路、というものが皆無だ。つまり誰かの部屋を通らないことには、手一つ洗えない。これは大変だ、と切実に思えてきた。おまけに、殆ど有り金はたいてしまっての、半年分前納、誰も前払いしてくれなどと一言(ひとこと)も言っていないものを、自分から、…馬鹿じゃなかろか。
 ドアがノックされた。一瞬、四つのドアの内のどのドアがノックされているのか解らない。裸では…ランニグシャツを…と思い、一瞬、着にかかったが、すでにドアは開かれていて…「あなたが、この部屋に?…わたしたちは、反対しているんです…通路のない部屋を…無茶だと思われません?…トイレどこだか知っていますか?」随分と豪奢な、美女だった。どうしてこんな美しい人(すらりとした体つきで、まるで、天女、みたいだった)が、こんな、、、、、変てこりんな場所に居るのだろうと、不思議に思われた。わたしは、緊張してしまった。美と魅惑そのものみたいな、〈天女〉は言っている。「わたしは、絵を描(か)いています。夫は詩を書いています。…だから、不用意に、むやみと、通路代わりに、あたしたちの部屋を通過されると、幾時間もの苦心の果てに、やっと、出来上がりかけている、イメージが…お解かりでしょうけれど、とたんに、吹っ飛んでしまうのです…」
 わたしは、絵や詩のことは解らなかったけれど、他人の部屋を、むやみと、通ってはいけない、ということくらいは、分かっていた。不動産屋の主人が笑い転げたのも、無理はない(つまり、いわゆる、雪隠(せっちん)詰め、みたいなのだ、この部屋は、…どうにも、動きが取れない、雪隠無しの雪隠詰め、ときているので、何とも、始末が悪い)それにしても、やはり、トイレ無し承知で承諾したわたしに、誰より多く、落ち度があるのは勿論だろう。
「安心なさっておいて下さい」わたしは言った。「地震などの、咄嗟の、非常の時にはともかく、常には、決して…しませんから…」
 「いえ、四分の一は結構です。ドアが四つあるのですから、四回に一回は…」〈天女〉が言っている。声には、凛とした美しい響きがある。「もともと、大家さんは、この部屋は、貸しに出していないんですよ。…ここは、部屋じゃないんですから、貸さないことになっているんです。管理人さんが勝手に貸しているみたいです、自分の小遣い銭稼ぎに。…一ヶ月、まるまるここに居られた人は、今までに、一人もいません。この部屋は使い物にはならないのです。長くても、二、三日でしょう。普通は大体一昼夜です」
 「一昼夜?」
 「そうです、一泊すれば不便さが身に滲みて来るのでしょう。生活できないってことが…」
 「生活できない!」わたしは、半年も…しかも、二食付き…領収書無しの前払い…暗澹たるものが…みすみすドブへ…苦労して稼いだ、殆ど全ての持ち金を、ドブへ投げ捨てたような有様で・・。
 わたしは、むやみと妨害しないと、〈天女〉に約束した。そして、「安心なさってください」と言って置いた。わたしは、その部屋は、絶対通ってはいけない、と決心したのである。すると〈天女〉は、裸のわたしの胸を一瞬見つめ(やはり絵描きの眼差しと言うものだろうか。鋭さと、何よりも、ひんやりと、冷気のこもったような、ためらいのない的確な視線が…)
 「また遊びにいらっしゃい」と〈天女〉は言った。わたしは、一瞬、すべてがうまくいったように思えて、うれしかった。しかし、実際には、考えてみれば、トイレへの通路が一つ減っただけのことなのかもしれないのだけれど。それにまた、わたしの背中を微笑みながらポンと手の平で叩いたあの女、〈北の間の女〉、も、叩かれた時は、わたしは非常にいい心地になったけれども、考えてみると、何か安心さしてはくれないような、わたしのまだ知らない何かを秘めているような…こんな気弱なことでは、ここでの今からの生活が…と思えたが…しかし、通路として、通過していると、また、微笑み掛けられ、ポンと手の平で背中を叩かれ…もしかすれば、早くも、二つの通路が・・・閉ざされてしまったみたいで…
 「一日…蜉蝣(かげろう)の命…」などと、ボウッと、もの想いにふけっていると、死んだかと思えるほど、怖い目にあった。何か物凄い音がして、天井が落ちたか…(と、わたしには瞬間思えた)わたしは、その刹那、咄嗟に裸の箱寝台の畳の面に、ヤモリのように、両手の平でしがみついた。すぐに建物に異常はないと気付いた後も、上方からは黒い小さなごみが、タッタッタッタッ、と層を成して沈んで来ているし、また、すでに舞い落ちてしまっているものもある。首をねじって、恐る恐る天井の方を見てみると、天窓の一部分が、どうやら、開かれているみたいである。管理人が大声で歌を歌っている。

 ヨルノギンザアアワアア
 夜の銀座は
 ナナアアアアイイロネエオンンン
 七色ネオン
 誰にあげよか
 唇を
 かりそめの恋 ああ虹の恋
 夜風よ吹くな やわ肌に

 「あなた達は、あの時代のことを、知らんでしょう。…何ともまあ、自由な時代では、あったんでしょう。…がんじがらめの、この糞みたいな時代が来るなんて、当時、誰が予想し得たでしょうか。…今から思えば、あれは朝焼けの時代だったと言えるのでしょうねえ…国を潰したばか者共が、厚釜しくも、まだ復活して来てはいなかった時代…寝ても覚めても悪巧みにしか専念できない政治屋共が、まだ尾を巻いて日陰でチリチリしていた痛快な時代…薄汚い、嘘っぱち野郎共が、畏れ多くも、われらが温順なる天子様を、まだ再び悪用し始めてはいなかった時代…畏れ多くも、われらが天子様が、まだご自由であらせられた時代…」

 ドオセウラレエエエタ
 どうせ売られた
 ハナアアア…
 花嫁人形
 …

 わたしが呆気(あっけ)にとられていると、天窓から何か黒い影が降りて来るように見える。いよいよ何事が、…と思って見ていると、「食事ですよっ」という管理人の声である。正方形の金(かな)盆を紐で吊るして降ろして来ているらしい。目の前まで降りてきた金盆を見てみると、金盆の四隅に穴を開け、そこへ針金の輪っかを通している。そして、その四つの輪っかを統(す)べたところを、紐の先の鉤(かぎ)で吊るし…しかし、降ろす際に、天窓の上部の周囲を囲っている木製の手すりとこすった紐の塵(ごみ)と天窓を開いた時に落ち始めた黒い塵が、あたりに舞い…なかには古い蜘蛛の死骸の小片(足が二、三本だけかたまったもの)もあり、それは食事の金盆の上に乗っている。これはいけないようだ。抗議しようと、わたしは「管理人さ~ん」と大声で叫んだ。しかし、向こうも大声で歌を歌っているのである。
 『赤い花びら アマリリス 窓にやさしく 咲いた日に わたしの胸にも 春風吹いて カモメが飛び立つ ああ、朝を待つ』『 姉と呼びたき 師の君も 悩みたもうか恋の夜は 桃色 紫 呼ばれて 呼んで・・』果てしない。これではどうにもならない。叫んでみたところ、大声と大声、相討ちである。
 そのうち、天窓の開けられていた部分も閉じられてしまった。またまた、黒い煤の様な塵(ごみ)が…部屋全体が薄暗いから、まだ目立たないものの、もし太陽光線でもが差し込んで来れば、…こんなものは、もう塵(ごみ)だらけで、見られたものではあるまい、と思われる。
 食事は、飯、味噌汁、干物の魚、の三皿である。味噌汁は、天窓から紐で吊るされて降ろされる時に揺れでもして、こぼされたのか、白っぽい傷だらけの樹脂製の椀の底の方に、ほんの少し残っているだけである。半分以上が、こぼれてしまった勘定である。しかも表面には黒いごみが浮いていて…
 干物の魚は、丸っぽい。鰯の干物、めざし(?)だろうか、丸干し(?)何と呼ぶのか、はっきりとは解らなく、自信がない。…飯にもゴミが。…まるで黒ゴマの振掛けのごとく…こんなものは、全然、食べられようが無い、と思われた。しかし、食べないと…これでも…わたしは、最低六ヶ月は、死にたくても死なずに生きて行こうと決心しているのだから…
(つづく)

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土呂夢小説集 Ⅳ


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土呂夢小説集 Ⅴ の 立ち読み

     古娼館幻情(こしょうかんげんじょう) 
                        
                                      杏 土呂夢(あん どろむ)


        (土呂夢小説集Ⅳの古娼館幻情Ⅰからの続き)

 〈計算〉(またの名は、〈ニセ医者〉)と〈管理〉は、あれだけ長々としゃべり合ったのだから、〈ヤカタ〉にも何か新しい波が打ち寄せて来るのでは、少なくとも〈計算〉は、真面目な仕事を始めたり、〈管理〉は軍歌を少しは慎むのかと思っていたが、全然どうして、わたしの思い違いである。何も変わらない。元の木阿弥である。〈管理〉の軍歌なんかは、むしろ増したし、〈撃滅体操〉などは、暇さえあれば、ほとんど連続してやるようになっていた。わたしは、この〈管理〉の〈撃滅体操〉によってもたらされる、おびただしい揺れが、やがては〈ヤカタ〉完全倒壊の主原因になりはしないかと、心配している始末である。
 わたしは、と言えば、どうしても〈天女〉のことが気がかりで、つい、箱寝台の畳に横たわり、両腕で頭を抱え込んでしまう。そして夢みたいなことを考える。すると、妄想が始まる。
 彼女が、とうとう、誘いに来てくれたのだ。「二人連れ立って歩くのも人目につくから、あなた独り先に行って、ホテル***で待っていなさい。あたし後から行くからね。退屈だったら、あそこは牡蠣フライがおいしいから、ヒレカツもおしいけれど、黒ビールでも飲んでいなさい」
 わたしはレモンをかけて牡蠣フライを食う。喉が渇いているから、黒ビールがうまい。シャワー、トイレ、これでこそ、快適、というものだ。マラッカ海峡の不安も何もあったもんじゃない。人間が生きているということは、こういうことなんだ、とわたしは、しみじみ、思う。
 やがて、〈天女〉が来る。何も言うことなどない。抱きしめて、したい放題に、キスするばかりだ。首筋なんかに、あまり強くキスすると、真空状態でもが生じるのだろうか、肌に血が浮いてきて消えなくなる。彼女は、時折、幾分、感極まると、わたしの肩や胸の筋肉を噛しめる。だから、噛まれた所なんかは、もしバスなんかに浸かれば湯が滲みて、後々までピリピリと痛むだろう。キスばかりしていると、唇は荒れ果ててしまい、二人とも、ヒリヒリと痛むこととなるだろう。そのことを言い合っては、二人はまた、馬鹿みたいに、容易に消え去ろうとはしないほほ笑みを浮かべ、ほほ笑み合うだろう。
 そんな折、ふと、わたしは独り想うかもしれない。ひとは死に、意識は永遠に無くなり、死体は残り、死体を形成している元素は永遠に存在するのだろうか、あるいは、何らかの過剰な力が加わらない限りは。
 わたしは…わたしの肉体を形成している元素に、ひどく愛着を覚える。死は、すぐここにあるけれど、何も恐れることなく、受け入れたく思う。霊魂は、後にも、先にも、存在しない。意識は、蜃気楼のごとくはかなく、また、豹変する。だが、肉体を形成している元素は、確固としている。わたしの肉を形成している元素こそが、わたしの永遠なのだ、と思われる。死体は焼却され、ガスとなり、水蒸気となり、灰となり、宇宙に、飛散するだろう。空中を漂い、海中を漂い、その中の数個の元素は、もしかすれば、成層圏をも、何らかの偶然で、飛び出すものもあるかもしれない。時間は、もはや、永遠なのだ。目下の生の死は、二度とは訪れない。太陽系を漂い、系外星雲を漂い、最後には、あの懐かしいアンドロメダ姫にまで、漂い、漂い、漂い…
 「何黙っているの」〈天女〉がほほ笑みながら、脚をわたしの脚に引っ掛けながら、言っている。
 「うん」とわたしは言うが、後に言葉は続かない。彼女のほほ笑みを見ているだけで、至福の時を感じる。
 妄想は、途絶える。
 頭を両腕で抱きかかえ、箱寝台の畳の上で横寝していると、自然に、腕は〈く〉の字、両脚も〈く〉の字、すべてが〈苦〉の字、…と、まるで他人事みたいに、うっすらと、思うともなく思っていると、…ドアの開く音だ。〈ひんがし〉みたいだ。
 彼女の出現に、寝そべったままで、何の反応も示さないわたしを知ると、彼女はわたしの手を握りしめた。それでも、やはり無反応とみてとると、彼女はわたしの唇にとりかかってきた。彼女の髪が、ばさっと、わたしの顔に覆いかぶさり、彼女の香りに襲われた。それは〈太陽と髪〉の匂いだ。彼女は、わたしにキスを求めているのだろう。しかし、それはもう、わたしには不可能なことなのだ。理由は、解らない。心変わりを、きたしたのかも知れない。自分自身では、自分自身のことを、今はもう、どうすることもできないようだ。
 「**ちゃん」と、わたしは彼女の名を呼んだ。しかし、彼女の方へは、背中を向けたままで、振り返ろうともしない。「**ちゃん、ねえ・・・ぼくはもう駄目だよ」
 何が、駄目なのか。どう駄目なのか。てんで、自分自身にも解らない。ただ、〈ひんがし〉の方へ、どうしても、気が向こうとしないのだ。
 彼女は、わたしの背後から、突然、身を離す。こちらが、びっくりする程、異常に、急激に…。そして、両手で顔を覆うと、そのまま、彼女は、駆け去って行ってしまった。
 泣いていたのかもしれない。〈管理〉や〈計算〉を泣かすのなら、まだしも、年端も行かない、まだ十六歳の、〈ひんがし〉を泣かすに至っては、これはもう、まともとはいえない。屑だ。もっとも、〈ひんがし〉を弱者などとは思わない。むしろ、気など、わたしよりは強そうだ。だけど泣かすのなら、より強い奴、より悪い奴を泣かさなければいけない。もちろん、わたしは誰であれ、ひとを好んで泣かそうなどとは、前もっては、一切思ってもいないけれども、もし否応なく事件に巻き込まれ、そのような仕方ない破目に陥ったらの話ではあるが…。
 ドアの開く音だ。東の間(〈ひんがし〉の間)のドアだと思える。〈ひんがし〉が戻ってきてくれたのだな、と幾分安心していると、実に、びっくりした。今度は〈ひんがし〉の母親らしい。わたしは、飛び起きて、箱寝台の畳の上に、座った。お母さんにも、腰掛けてください、とすすめた。ためらってはいたが、立ったままでは、視線の差があまりに激しすぎると見たからなのか、渋々、箱寝台の畳の一番端の部分に、距離を置いて腰掛けた。
 「〈踊りさん〉」と母親はわたしに向かって言った。「娘に一体何をなさったのです。…娘は何もなかったと言っていますが、何もなかったはずがありません。泣いているのです。それも、生まれてからこの方、一度も見たことがないほど激しく、です。娘は人間がすっかり変わってしまったみたいに、苦しみ泣いているのです。こんなことは、初めてです。」
 〈踊りさん〉には参った。こちらは、何か新興宗教の信徒にでもなった気分である。両手を上げて、盆踊りでもしているような、踊る宗教のイメージが、一瞬、今はもう、滅茶苦茶に混乱しているわたしの頭に、うっすらと、おぼろに、浮かんでくる。はた目というものは、おそろしいものだ。自分ひとりでは、自分を〈踊りさん〉と呼べるなど、到底思いもつかない。しかし、他人は、二階に住んでいる人は〈お二階さん〉、隣の住民は〈お隣さん〉、と呼ぶ。…だとしたら、〈踊り部屋〉の住人は〈踊りさん〉となるのか。
 わたしは、すいません、と謝る以外に、手はなかった。今でも〈ひんがし〉が何も嫌いな訳ではなし、お母さんだとて、何も、わたしの敵などではない。しかも、彼女が泣いているのならば、それは全てわたしの責任である。しかし、だからと言って、再び彼女を抱きしめるわけには行かないのである。そうすれば、彼女が泣き止むのは知っている。そして、その上に、結婚でもすれば、お母さんだとて、もしかすれば、わたしを喜んで迎えてくれるかもしれない、などとさえ思えてくる。しかし、いま、わたしの心は…幸福とか、平安とか、光明とかには背を向けて…ただただ…わたしは、不埒にも、まともな生活というものには…
 お母さんは、最後まで、〈最後の一線〉にこだわっていた。わたしがいくら保証しても信じようとしないのである。もし事実、そうであるのなら、娘があれ程苦しむはずがない、という論法なのである。〈最後の一線〉以外には、後にも先にも、人が気にしなければならない大切なことは、何もない、といった口振りである。好き合っているかどうかなんてことは、論外で、大勢に影響ないといった構えである。てんで意に介していない。…単純明快といえばその通りだが、微妙な恋する人々の心の震え、それはまた悦楽に直結しているようにも思えるのだが、そのあたりの事には、この際一応目をつむり、ただただ、〈最後の一線〉一点に絞込み…
 わたしは〈ひんがし〉が誰かと新しい恋をして、本当に幸せになる以外に、お母さんを安心させてあげる方法はないだろうと、思えた。苦しみの上に、またまた、苦しみがのしかかってくるように感じられた。わたしは、お母さんに、繰り返し謝る以外に手がなかった。なおも、お母さんは言っている。「噂と言うものは、一旦立つと、もう取り返しがつかない。世間の人々は、噂というものを、悪い方へ悪い方へ曲解してはくれても、決して良い方に理解しようなどとは、努めてくれない」わたしにも、お母さんの不安は当たっているように思われる。それだけに、わたしの悩みもふえる。あの音楽のせいなのだ。あまりにあの音楽が美しく激情的だったので、理性が消え失せ、発作的に、〈ひんがし〉を組み伏せてしまった。いや、すでに彼女が、わたしを待っているように、わたしを受け入れるのを待っているかのように、ベッドで仰向けに横たわっていたからだ。あまりにも…(いや、彼女は、からだはもうすっかり出来上がっていたが、心は、初(うぶ)で、何も知らず、子供のように、寝っ転がって、ただ…)わたしは、彼女の、黒くて大きい艶やかな目を、最初に、一目見ただけで、すでにもう、彼女に恋してしまっていたのかも知れないのだ。一体に、わたしという人間は…
 〈ひんがし〉のお母さんは、やっと、帰って行ってくれた。わたしは、また、ごろん、と横寝した。自然と、両腕、両脚、〈く〉の字型…
 背後に、ドアの開く、音がする。西の間のドアに違いない。しゃきっとした足音からして〈計算〉ではなく、〈野性〉だろう。用心して置かないと、またまた、せしめられるぞ。…とまでは思えるのだが、それ以上は、もう、気力が続かない。〈野性〉の方へ振り向くわけでもなく、起き上がる元気もない。姿勢、体勢は、受身である。いまの自分は、餌食の位置にあるんだと、痛切に感じられる。
 「しんどいのん?」すでに〈野性〉は、わたしの手の指に指をからませている。触れられると、こちらの考えはぐらつき、決心までもが影響を受け、あやしいものに変化するみたいだ。〈春の小川〉の心地よさが甦る。開かれた白い太ももと漆黒みたいに艶やかなぴかぴか光る陰毛の麗しさ。わたしの苦しみは、ほんの少し、やわらいだような気がする。その上に、なお、〈野性〉は〈おすし〉と言う言葉を口にする。おかず、干物続きのわたしにとっては、その言葉は、刺激が強い。分厚くて、歯触りのしっかりとしたネタの奴を、むしゃむしゃ腹いっぱい食いたい。吸い物も、蛤で結構、がぶがぶ飲みたい。うまい漬物があれば、それも、結構。…まるで、餓鬼の状態である。〈野性〉には、いまだに、背をむけたままで、わたしは、虫のよい夢を見ている。
 「ねえ」〈野性〉は、なおも、徐々に、身をすり寄せてきて、今ではもう頭と頭が…〈野生〉の吐く息が、すっかり、わたしの左の耳たぶの後ろ側のあたりに感じられる。「アベック用の昼温泉に浸かって、お寿司食べながら、遊ぼ」と彼女は囁いている。勿論、いま、へとへとで、弱化している、わたしの頭には、それは、結構、毛だらけ、・・・と思われるけれども、ちょっと、考えてみれば、帰りは、また、独りぽっちにされ、帰ってくれば、〈ニセ医者〉に責められ、ついには、幾枚かの一万円札がまた飛び去っていくことは、明らかなことだった。わたしは、深い悲しみを感じる。彼女は手の甲で、わたしの頬をなでていたが、今度は、背後から身を被せてきて、唇で、わたしの唇を盗もうとしている。彼女の帯が、背中に硬く感じられる。
 「ねえ」「ううん」二人して、これを、繰り返している。いつが来ても、要領を得ない。
 わたしの頭は、次第に、〈アベック用昼温泉〉のイメージに占領されていく。極浅い湯船の、寝そべらないと肩が浸からないほど浅い湯船の、一番奥の所に石組みがある。ある種の深成岩系のきれいな緑色の石で組まれている。湯は、その石組みの間から流れ出し、石の合間を通って、湯船の方へ、ちょろちょろ、流れ落ちてくる。湯加減はぬるくて心地よく、換気が適度に効いていて、空気は余りにも湿り過ぎてはいない。さわやかなそよ風が、時折、湯の面を流れて行く。女は、悪戯っぽくほほ笑みながら、男の腕や胸や下腹の筋肉を人差し指で突付いている。女の目は、いつもよりも、また一段と大きく見開かれ、その眼差しは、幾分、うるんでいるみたいだ。お湯が揺れ、その揺れにともなって、女の陰毛もたゆたう。
 「ね、結婚しよ」と女が言う。「そうだね」と男が言っている。二人とも、結婚などできないことは解っている。それは遠い遠い水平線の、そのまた彼方の出来事のように思える。それは、しっかりとした世界での出来事であろう。こちら側は、それに反して、もう何もかもが、どうにもならない、滅茶苦茶な、駄目な世界である。戻れない世界である。一方、あちら側は、遠い明るく輝く小さな小さな点である。
 「そして、アルゼンチン行こ」
 「アルゼンチン?」男は女の唇に、小さなキスを一つしてから、尋ねる。湯の中の女のからだは、つるつるすべる。「なぜ?…なぜ、アルゼンチンなの?」「薄暗い酒場があって、貧乏な人たちも、大勢いるみたい」「ふうん」「移民みたいなものよ」「移民?」「そうよ。あっちの方が、あたしには向いてるみたい」「なぜ?」「なぜかしらね」「もはや寿司は食べられないかも」「そら、おすしはだめよ。お風呂もだめよ。何もかも駄目よ。だけど気分は・・・わたしの国、と思えるようになるかも…」「アルゼンチンでなら、結婚できるかもしれないね」「薄暗いのは、場末の、酒場だけよ…ブエノスアイレス…」「知らない」「やはり場末の方が…」「そりゃ、そうだよ。すでに、僕たちは目をやられている、みたいなもんだからね。弱視気味だよ。強く輝く光は、苦手かもね」「ちょっと、そっとしておいて、ねえ…」と女は言って、男の肩に、手の平でお湯をチャプチャプと掛ける。
 「ねえ…ばかねえ」〈野性〉が言っている。「独りで、にやにや笑ったりなんかして。何考えているの、一体?」
 「アルゼンチン。アベック風呂の夢みていた」
 「行こ。行こ。アベック風呂。はよ行こ」と囁きながらも、〈野性〉は、どうかして、わたしの唇を盗もうと試みる。その都度、わたしは、うまくかわして、難を逃れる努力を強いられる。しかし、いつまで避け通せるものなのか…。
 〈野性〉が、急に、身を離す。もしかすれば、〈野性〉に連動して、〈計算〉のお出ましかな、と思っていると、天窓のところ、〈管理〉だった。

  くうううもに そびゆる たかちほのおおお

 〈管理〉は大声で歌っている。
 この大声を聞いてか、「馬鹿が…」と言いながら、今度は、〈ニセ医者〉が白衣をはだけて西の間から出てきた。わたしは、嫌な気がした。〈野性〉に接近されているだけに、また因縁をつけられ、〈五級〉二万か、〈六級〉二千円かの、おそらく〈慰謝料〉をせびられるのではないか、と危ぶまれたからである。もし、〈管理〉と〈ニセ医者〉の掛け合いが熱を帯びてくれれば、その時は、〈野性〉の、わたしへの近接は問題視されず、〈慰謝料〉もせびられずに済むのだが。
 「雲に聳ゆる高千穂の 高嶺おろしに草も木も 靡き伏しけん大御世を…みなさん、この荘重なる響きは如何です。…テンポをずううううっと落としていけば、何と言う、荘厳な境地、雅楽の響き、まさに、雅(みやび)の世界としか言い様がないではありませんか。雅(が)なる舞かな…おおどかにして、優雅な舞が、瞼の裏に浮かんで来るようではありませんか。荘厳さ。快なる静寂。この特有の独自性。…懐かしいではありませんか。わたしがまだ、国民学校の頃のことです。みんな不動の姿勢をして、歌ったものです。幼いながらも、銃後を守る一小国民として。けなげでは、ありませんか」
 「馬鹿が」〈ニセ医者〉が怒鳴っている。「何も、けなげなことあれへんで、そんなもん、ひとつも。来る日も来る日も、日本放送協会の嘘のニュースばっかし聞かされて、だまされとっただけやないか。アホな芝居や。国民一丸となって、アホ芝居に夢中なっとった。青筋立てて、何年間も糞真面目に。糞真面目の裏には嘘があるな。糞真面目見たら用心いるで。いまは、大企業の偉いさんが、幾分、糞真面目なこと言よんとちゃうか。要用心かもな。…新聞は法螺吹くは、ラジオは嘘つくは…いまでも、耳の奥に、NHKニュースの軍艦マーチ残っとるで。でっち上げの勝利のニュースのトップは、必ず、軍艦マーチで始まりよったもんな。ジャンジャン、ジャンジャカジャッジャ、ジャンジャンジャンジャンジャン、と来よったな。それから、守るも攻むるも黒鉄(くろがね)の…『大本営海軍部発表…』と言った感じで、嘘勝ちのニュース始まる。しかし、もう忘れたなあ。要するに、嘘八百の数字が並っびょった。それも、朝も昼も夜も、毎日毎日、何年間も、まっかな嘘のニュースが。それでも、信じて、平気で、お国のために命落とっしょるもんおる」
 「いやほんま、懐かしいなあ…NHKさん再放送やってくれへんのやろか、ノンカットで、いじらずに。丸一日分だけでもええし。『…**群島**洋上に於いて敵艦隊を撃破せり。轟沈、駆逐艦三、…撃沈、空母一、巡洋艦一、…大破、空母二、…一方、我が方の損害…』これがまた、少なかったんやわな。殆どなかった。ほやから、てっきり勝っちょる思うて、もうボロ勝ちや思とったな。いっぺんも疑ったことあれへんで、わい。…お前どうやった?」と、〈管理〉。
 「一度も、そんなもん、疑ったことあれへん。そんなもん疑ったら、スパイや、国賊や、非国民や、言われて、差別され、村八分され、迫害されよる。…みんな勝たなあかん、勝つもんと信じとった。一億火の玉や…」
 「しかし、今から思たら、嘘かましやったんやな。あいだけ一所懸命(め)なッとったのに。一億屁の玉だったんやわ。それも、すかん屁(べ)や。ほんまえらい目遭いよったな」
 「一番辛っかったんが、我が皇軍の武装解除の時やったな。それまで、武器こそが、勝利への突破口や教えられとったからな。新兵器、新型飛行機、〈万年筆形〉が出来たと聞いた時はうれしかったな、〈弐式〉などというのも…」
 「へえ、そんなんのんあったのんか。なあにも知らへなんだな。何や、そやけど、それ」
 「飛行機や。今になってみれば、屁みたいなもんやけどな。B29とは相手にならんわ。戦闘機か爆撃機か準爆(?)くらいだったんかな。〈万年筆〉とB29や。万年筆とすりこ木みたいなもんや、相撲にならんわ。ええ飛行機やったな、B29は。惚れ惚れする。一万メートル上空から、爆弾やっりょったんとちゃうか」
 「ぱらぱら仰山、焼夷弾撒きやがって。えろう焼っきょったな。この世の地獄っちゅうんやな、あんなんを。・・味方の高射砲、あれ何や。屁もええとこやったな。一万メートル全然届かなんだんちゃうか。下の方で、スパスパ、力なく散発的に炸裂するだけや。やっぱしB29は横綱だったんやわ。アメリカは横綱相撲とっりょったな」
 「それに」と〈ニセ医者〉。「それにアメリカは兵を大切にしよったな。できるだけ兵死なさんように武器改良しよる。当たり前やけどな、そいは…。ところが、当方物資無きゆえ、兵の死前提に安上がりの武器作っりょる。いま、我が国、科学技術世界一や言うて、えらい自慢しよる分野がある。しかし科学精神ちゅうもんは、案外、戦時中と同じとちゃうか。しょっちゅう神頼みやっりょる。偉いさんでも、結構、迷信信じよるもんな。NHKニュース見てみ、お祓いとか裸祭りとか、一体に、祭り好きやな、NHKは。理性の側には立っとらへん。祭りばっかししよるで。いざとなったら、また、神風みたいなもんに、すがりつっきょんのんちゃうか」
 「ま、そういう点はあるかもな…そやけど、勝った負けたも、なんやけど、武装解除聞いたとき、こらもうあかん思たな。いっぺん負けても、武装さえしておれば、いつか勝てるかもしれへん思とったからな。ま、そのように、洗脳されとったんやろな、わいらも」
 「みんな、アホだったんやな」
 「ほんまや、いっぺんも疑ごたことあれへんもんな」
 「いっぺんも、あれへんで。そんなもん、てっきり信じとった」
 「いまから思たら、不思議やな」
 「いまも、なんか、あの時同じで、騙されとんと、ちゃうか」
 「そらもう、騙されとるやろ。後にならんと、解らへんのやわ、騙されとんのは」
 「おっちゃんらだけとちゃうか、騙されとったん」月丸が言っている。いつのまに、出てきたのか。昼風呂にでも入って来たのか、そして、睡眠薬も抜けているのか、元気そうに若々しく輝いている。
 「そんなアホなことあれへんで。わいらだけと、ちゃうで。みんなや。国民全員や」〈管理〉が言っている。「ほいで、嘘でもうれしかったな、我が軍が勝つと。それしか考えとらなんだもんな。言うたって、神州、神国やもんな。負けることなど、考えられなかった。いざとなると、神風が吹くもん。絶対負けへん」
 「いや、わしも」と〈ニセ医者〉が天窓見上げて、吠えている。「ほんまのこと言うて、あの頃は、完全に騙されとったな。勝つと嬉しかった。轟沈。撃沈。撃墜。こんな言葉が一番好きだった。『轟沈。轟沈。凱歌があがりゃ…』いう歌あっりょったな、あの頃」
 「おっちゃんらだけとちゃうか、なんか特別、騙されとったん。神風や言うて、よう信じよったな」月丸は、なおも疑っている。
 「そんなこと、あれへんで、月丸ちゃん。ラジオが朝から晩まで嘘つく言うたら、ほんま、この頃の子、信じよらへん。戦時中は、そうだったんや。軍部の言いなりや。いまでも保守政権の影、特にNHKニュースには、少々は影響しとるやろけどな。今から思たら、恐ろしい時代やったな。もう、おおかた忘れたけど、NHKさん、再放送やってくれへんかな。懐かしいやろな」
 「おっちゃんらだけ、特別だったんとちゃうか」月丸は、まだ疑っている。
 「特別、特別、言うて、なんか、わいらだけが特別アホや言いたいんとちゃうか。ほら、今は、あんたらからみたら、わいらがアホに見えるやろけど、その当時は、皆が皆、騙されとったんや。騙されんもんは、みんな非国民や言うて滅茶苦茶されよったみたいやで。逮捕、監禁、虐殺、やわな、最悪の場合は。…一億総白痴や、その頃は。わいらだけと、違(ち)ゃうで。あいつが…」と〈ニセ医者〉は〈管理〉を指して言う。「あいつが、アホばっかしこくから、わいらだけが、アホだったと思われても、しょうないけどな」
 「アホなことしょんは、わいとちゃうで、お前の方や。〈黒っけの黒穴(コッケツ)〉が。…しかし、それにしても、ええのは、やっぱし歌やな、いつの時代も。歌だけが、時代を超えとる」〈管理〉は、ここでまた、『雲に聳ゆる高千穂の』を、大声で歌い始めた。
 「もうええわ。懐かしあれへん、ちいとも。そやからな、違いは、まだ信じとるアホか、どうかやで。二度騙されるか、どうかやわ。ここが、ほんまのアホかどうかの分かれ目や」
 「みんな歌っていたのだ、当時は。みんな歌うことになっていたのだ、要するに」
 「だから、無理矢理、みんな…」
 「節(ふし)を問題にしているのだ、わしは。この節の美しさを抜きにして、一体何が語れると言うのだ。『雲に聳ゆる高千穂の 高嶺おろしに草も木も 靡き伏しけん大御世を…』何と言う、おおどかに麗しい節まわしなのだ。しかも、天子様は、天空より、高千穂の峰へ、御降臨遊ばされる。ありがたいロマン以外の何ものでもない」
 「みんな強制されていたのだろうが、一人残らず不動の姿勢を強いられて。もし、従わなかったら、即、殴り飛ばされ、殴り倒されていた」
 「当時の教官というものは、片手に、タクトみたいなものだ、節々竹(ふしふしだけ)というものを持っていた。節々竹は、極度に節の多い竹のことだ。節だらけの竹なのだ。節の連発している竹なのだ」
 「太さは?」
 「太さ?」
 「いや、その竹のだ」
 「タケ?」
 「いや、そのフシフシダケのだ」
 「まあまあだろう。太くはない。なぜなら、あまりに太いと、しばいた時に肉に喰らい込みにくいもの。節々竹は、徹頭徹尾、しばくための道具みたいなもんだ」
 「タクトと違(ちゃう)のか」
 「タクトみたいなもんだ。しかし、わいには、ただただ、人間をしばくための道具なのだ、としか思えない。小学生の頭をしばくのだ。当時はみんな、今から思えば気持ち悪いが、ごりごりの丸坊主頭だった。強制だったのだ。子供の人権なんかはあったもんじゃない。個人の自由などは…自由皆無だ。自由だったのは軍部だけだ。それと、軍部にゴマすった偉いさんだけだ。国を牛耳っていたものだけだ。偉いさんの自由増えると、庶民の自由減る。けったいな国やで、本邦は、ほんま。今日日(きょうび)、愛国心愛国心言われても、どうも、裏に嘘があるな。政争の具にしとる。不純やわ、ほんま。天子様も、畏れ多くも、しばしば、悪しき権力者のために、悪しくご利用され遊ばされ、…無念、としか言いようが無い。…その点、嘘のない愛国心欲しいな、わいは、腹の底から湧いてくる、自由純粋な愛国心ちゅうもんが…」
 「アホ。一体お前は何考えとんや、空恐ろしい。そういう手合いが一番危険なんやわ」
 「何も考えとらへんで…ただ、思てる事実の一端を」と<管理>。
 「政治に感情求めたらあかん。政治に大切なのは、冷徹な比較や。庶民が比較すんのんや。思い込んだらあかんで。惚れたらあかん。惚れた弱みや。惚れ込んだら、メッチャしよるで、政治は…じいっと、こっち見とんやわな、世論ちゅうもんを。ほいで、庶民ほんま惚れ込むと、よっしゃ行け、や、もう滅茶苦茶しよる。税金上げるは、庶民の権利奪うは、徴兵しよるは、戦争するは、…情込めたら危険やで、逆に、バンバン使い捨てにしてやんのや。国とか政治、ありがたがったらあかんで。あんなもん、全然、立派あれへん。しゃあないし、こっちは、次々に、ええもんに乗り換えていくこっちゃな。固定したら、どんなもんでも、水腐る」
 「お前、女も、仰山、乗り換えよるやろ」
 「アホ。女房(にょうぼ)前にして、ええ加減なこと言うな、怒るで、ほんま」
 「すまん、すまん。こりゃあかなんだ。奥さんいはるんやわ、ほんま。お前のはだけた白衣の蔭なって、上からは見にくいんやわ。」
 「このひと、乗り換えるんの、パソコンだけやわ」〈野性〉が加わっている。「純情っちゅんか、甲斐性がないっちゅんか。パソコンだけは、ほんま次から次から乗り換えよるよ、腹いせみたいに…。高こうつくよ」
 「あんたも人前で」と〈ニセ医者〉が〈野性〉に言っている。「恥さらしなこと言うたらあかんわ。わいは、これでも、言いたい放題言うとるみたいでも、ちゃんと要所要所は、鍵掛けて、我慢しとんのやで。そやし、あんたも、ある程度、辛抱っちゅうもんしてくれなあかんわ。も帰っとき帰っとき」
 〈野性〉は〈管理〉のいる天窓の方へ顔を向けてほほ笑んでいる。しかし、〈ニセ医者〉と〈管理〉の目を盗むと、一旦、ぎゅっと、わたしの手を握り絞めてから、西の間の方へ去って行く。どうして、このような危険を冒すのか、わたしには、皆目、解らない。スリルといっても、あまりにもリスクが大きすぎて、わたしなら尻込みするだろうに。やはり、これは一体に、〈野性〉の激しい気性というものなのだろうか。
 「奉げ銃(つつ)の、美人局(つつもたせ)」〈管理〉が歌うように、節をつけてわめいたが、〈ニセ医者〉の大声と相討ちになってしまった。
 「庶民が、秤にかける。政治はこれに限る。ところが、お前は、惚れ込む相手を求めている。惚れ込もう惚れ込もうとしている。そこが誤っている。危険なのだ。彼奴らは私利私欲に明け暮れしているのだから、こちらも、役立たずは、バンバン使い捨てにすればよい。それに限るて」
 「ときに、節々竹の一件はどないなった?」〈ニセ医者〉が叫んでいる。
 「おお、節々竹か」まるで、渡りに舟、といった体(てい)で、〈管理〉が天窓の手擦りから身を乗り出して、応えている。しかし、このとき一瞬、わたしの頭には、またまた食事のことが、心配になってきた。〈管理〉は今も、わたしの食事を足元に置いたままで、長談義に耽っているのではないか、という疑念が湧いてきたからである。しかし、いま、わたしが叫んだとて、どのみち、到底、二人の極度に甲高い叫び声にはかなうはずもない。こちらも、ある程度、頭の調子を狂わさなければ、ああいった聞き苦しい音調は生じようがないだろう。それでも、わたしは、食事のことを思うと、自然と「管理人さあああん」と叫んでしまった。しかし、声における劣勢は如何ともしがたく、〈ニセ医者〉の耳までも届いていないみたいだ。やはり、姿勢というものが出来ていないからかも知れない。横寝したままで、腕は〈く〉の字、脚も〈く〉の字、これでは声も透るまい。
 「だから、丸坊主というものは、毛のない分、痛みがこたえるのだ。節々竹で一発やられても、痛みは相当なものなのだ。ところが、一度など、わいは三連発喰らったことがる。国民学校三年生の時だ。瘤が三段、ぽっぽっぽっと、即座に盛り上がっていくのが、手を触っているとわかった。瘤は下ほど大きく、重ね餅みたいな感じだ。痛みといえば、これはもう何とも言いようがない。失神寸前で、立ち続けているのが困難に感じられる程の、極度の痛みだ。なぜなら、節々竹だもの。丸坊主のせいも馬鹿にはならないだろうけれどね」
 「教師が…それが教育というものなのだろうか」
 「先生は、いい先生だったよ、さっぱりした。・・・物凄い大男で、手の平も大っきかったな。何か分厚い板、板(ばん)といった感じだ、その先生の手の平。…一度、その平手で、思いっきし殴られたことがあったが、二、三メートル真横に吹っとっびょったな、わいのからだ。頬っぺたやられたんやわ、バツーン、と。三年生のときや、国民学校の。ブクッ、と腫れよったな、ほっぺた、すぐに。殴られた瞬間、からだは、フワッと宙に浮っきょった。その瞬間の感触いまでも消えてえへんで、覚えとる。しかし、ええ先生やったなあ」
 「アホ。それがもう、お前の、箸にも棒にも掛からん、阿呆なところや。批評精神っちゅうもんが全然見受けられんな、お前には。お前みたいなアホおるから、世の中、ちいとも、良うならへん。ケジメっちゅうもん持たなあかんわ、人間。人権意識持たな。なんぼええ先生(せんせ)でも、暴力使こたらもう、悪い先生(せんせ)や。お前の頭は、切り換えっちゅうもんが全然出来よらんな。それアホの証拠やけど。お前の脳味噌だけは、わしには解らん」
 「そんなことあらへん」
 「そうでなかったら、進歩っちゅうもん始まらへんやないか」
 「進歩もええけど、ちょっと薄情すぎるんとちゃうか。冷たすぎると言うか…。乗換え、切り換え、ばっかしでは」
 「そんなことあれへん、なにも薄情あれへん。悪、と決別するだけや。善悪目つぶって、情に流されたあかんわ。それやるから、また戦時中みたいな、騙されるんや。屁かまされんよに、屁に用心せなあかんで。そうせなんだら、またまた、一億屁の玉やで、そんなもん」
 「まあなあ、そんなもんかなあ」と〈管理〉。
 「そら、そうやがな」と〈ニセ医者〉。
 「『海ゆかば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山ゆかば 草むす屍 大君の 辺(へ)にこそ死なめ 顧(かえり)みはせじ』…ええなあ。最高潮やな。荘厳。奥ゆかしさ。愛、ここに極まれり、といった感、が強おうするな」

(つづく)

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土呂夢小説集 Ⅴ


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2011年12月31日 (土)

土呂夢小説集 Ⅰ の 立ち読み

憂き城物語 (240枚)

                              
                             杏 土呂夢(あん どろむ)


1. 夜行列車で   

「ところで、あなたはどちらまで?へへへ…」安見が言っている。「なんなら当てて見ましょうか」
「T市です」と二郎が言う。「正確に、T市なのかどうなのか、その点はまだ分からないんですが…ですが、まあT市です」
「・・まあ、T市ですか、まあ、ね」と安見。「もしかすると、あなたは初めてそこへ行く。違いますか。そうでしょう。生まれて初めてね。へへへ…あなたの、『まあ』には、まあ、そういった響きが、秘められていますね。ところで、その点私は、T市じゃありませんよ。T市と言っても別に不都合はないんですが、やはりT市じゃありませんねえ。というのも、これは一種のルールみたいなもんですからな。あなたがT市なら、わたしはT市じゃない。ヘヘヘ…つまり行き先が同じじゃ、どうもこの面白い話は望めない。まして深刻な打ち明け話でもかりするとしたら、ですな。…要は、これは、ある種のデリカシィの問題です。…ところで、あからさまに言って、あなたは稀に見る懐かしそうな方ですね。私はO市駅以来、まあ、そんなこたどうだっていいんですが、乗り込む前からですな、つまり、プラットホームで並んでいた時からです、あなたの風貌に惹き付けられていました。あなたは感じがいい。あなたの両眼にはほほ笑みがある。つまり、人間らしい顔ですな。というのも、私などは、私は時折、鏡の中の自分の両眼を見つめますが、私などのは一体に、てんから人間らしい目つきをしておりません。それは人間らしい心情を持っていないからでして、つまり、人間らしい、その、生活を、日々営んでいないからです。私の眼なんぞには、真の笑みなど、このところ、ついぞ浮かんだためしがない。もっとも、偽りの奴ならしょっちゅうですがね。これはもう朝から晩まで、もしかしたら眼をつむって眠っている時でさえ、もし、目蓋をひんめくって、そんなこた不可能ですがね、もし目蓋をひんめくって覗いてでもみたら、やはり偽りの微笑を浮かべているかもしれませんよ。ちょうどロシアでは、なにかトランプのスペードの女王すらが、悪意の微笑を浮かべたらしいそうですからな。もっとも、話があまりにも極端に飛び過ぎますんで、さぞかしあなたは、私が馬鹿で、かつ気違いだろう、と考えられているに違いありませんが、まあ、いいじゃないですか、何と言ったって、夜行列車の中ですからな…それに行き先が違っている。これは重要な点です。またたとえ行き先がすっかり同じだったとしても、再び出会うなんぞということが一体考えられますか。これはもう確率的に確かです。ほかならぬ、確率的に、ですな、へへへ…さてと」安見はポケットからたばこを取り出した。「いかがです?喫わない。あなたはたばこをやらない。そうでしょうとも。まったく予想通りです。私は『こいつは、たばこをやらんな』とこう最初ひと目見た時から、思っていましたよ。結構。もっとも『こいつ』などと、つい、あなたを呼んでしまって、失礼。さて、それでは一つ、あなたにこれをお見せしましょう。とやかく言うには及びますまい。私がどんな人間で、どんな人生を送っていて、実際、私は自分の人生に全然実感がないんですがね。そのくせもう有頂天になっていましてね、一秒一秒、なにか自分の人生が目的からずれて行っておりはしまいか、とこう不安になっている、まあ、こういったあのよくある連中のうちの一人なんですがね。その実、目的なんぞありゃしない。ただ常に、いらだっているばかりなんです。…ところで、さて、これです。どうぞ、ちょっとこれを、手に持ってくれますか」
二郎は一体何だろうと思った。安見が二郎の手に無造作に手渡してきたものは、部厚い、かたい一万円札の束だった。それはおそらく三百枚は下らなかっただろう。
「札です。札です。えっ?どう?どうです?率直に言ってみてください。あなた、どうしたんです。感想は?そうほほ笑むだけじゃなくって、なにか、暖かい、感極まった、なんて言うんですか、その、『これは、まさしく…』とか、なんとか…あなたは、あなたは、ひとことも言ってはくれないんですか」
二郎は、何もかもがあまりに唐突に起こってくるので、面食らってしまっていた。そして、どうしたものか不思議に、二郎には、その時、一万円札のシックな色合いとか、繊細な模様、そんな美的な側面ばかりが、やたら鮮明に目についた。二郎は安見に、そのことを伝えた。すると安見は「なに、あなたは、色調を言いますか」と言った。そしてその顔は急に毒々しくなって、独り言のように「思った通りだ」とつぶやいた。安見はじっとしていた。まるで、我を忘れているといった風だった。しかしすぐにほほ笑みをとりもどし、再び二郎にしゃべり掛けた。
「私が告白って言ったのは、こいつにまつわり付いているのです。つまりその、この金をですな、私はこの金を一瞬のうちにつかみ取りましたが、K市のはずれにYというところがありますが、競馬ですな、そこには競馬場があります。つまりわたしはこの金を競馬場で手にしたのです。私は三年間というもの、この日のために、馬鹿になって勉強にはげみました。統計学、推計学ですな。それこそ明けても暮れても気違いみたいになってこの研究、つまり馬券学ですな、こいつに打ち込んできたのです。成功への夢は、その間、私の心臓のうちにあって、焔のように燃え続けていました。夜な夜な、孤独のうちで、誰にも知られず、この夢の実現に心血をそそぎました。私は数学の各種の理論、方法を手当たり次第に吟味して行きました。時には、馬券学なんぞとはてんで関係のない、糞面白くもない分野に、頭を突っ込み掛けていたこともありましたが、無駄足踏むってやつですな、実際、ところが、そうこうしているうちに、ランダム・ウォークって理論にぶっかりました。『盲歩き』くらいの意味でしょうか、はははは…フランス語が出来ないので、常々、英訳本で読んでいましたが、こいつ、『盲歩き』ですな、こいつはもともとアメリカ生まれであったに違いありません。それはともかく、こいつのうちに、私は全き理論、夢の法則、つまり分析から実践への理論、即ち、過去の資料の分析…過去の資料などと言えば大げさですが、分かりやすく言えば新聞ですな、競馬新聞ですな、『B』とか『N』とか、そりゃその道に入るとその道で、また色々とあるものです。もっとも、あなたなんぞには、一生縁もゆかりもありますまいが、この資料ですな、この過去の資料の分析にも矛盾せず、かつ、可能性においても確固とした、つまり論理的に妥当性のあるこれ、理論、これを発見したのです。まるまる三年かかってですな、はははは、どう?へへへへ…その結果が、こいつです。束です。『色調のシックな』ですな。どうです?緒戦だとはいえ、一体、これは何です?え?一体何を意味します?へへへへ、へへへ…勿論、信じてなどくれなくっていいですよ。一切、ね。信じてなど下さらなくって…私は目下しゃべりたいので、ただやたらしゃべっている。へへへ、へへへへ…とは言え、この成功は、私には、まさしく狂気もんなんですよ。それってのも、今後は、ほとんど思い通りに、ほとんどと言いますのは、第一に、中央競馬会がつぶれない限りですな、もっとも中央競馬会がつぶれたって、と言いますのは、この国においてですな、一切のギャンブルが禁止になる、つまり、純にして正なる革命が惹起する、という事態をかり予想してですな、だがそれでも、たとえそうなっても、アメリカは、どうです?フランスは?イギリスに競馬がないですか、え?ダービー卿はイギリス人じゃなかった?…競馬のない世界。そんなものが考えられますか?え?…もっとも、紅旗の国は別格でしょうがね。あそこは、あそここそ…それにしても、どうです。つまり私は、今後死ぬまで、思い通りに、何億、何十億、何百億、へへへ、いくらでも稼ぎ放題って寸法です。それこそ、お気に召すままに、ってな格好ですよ。しかも私のこれには賭博っ気がない。こっから先も賭博っ気がありません。徹頭徹尾、明晰なる論理、純然たる数学、これの行使以外の何ものでもないのです。誰が、いつ、どこで試みようとも、私のやり方でやりさえすりゃ、必ず、この通りになってしまうのです。つまり、言うところの、客観性ですな…普遍妥当性ですな。ところで、目下、私は社長秘書にしか過ぎません。ですが、へへへ、この通り天下を取ったようなもんなんです。どんな企業が、これほどスマートな事業を営めますか、え?どんな企業も、これ程知的にはやれません。しかもこの秘密を私が本にでもしない限りは、私は死ぬまで、私は一生涯…。ところで、ここ二、三日、この金を身に付けてからというもの、私はただの一睡もしていません。眠くなりません。不思議なものです。まるで脳の内部に、いま一つの血液ポンプ、つまり心の臓ですな、心臓が出来てるみたいな調子です。そしてやけに恋がしたい。それはもうまるっきり、犯行後の犯罪者みたいな具合ですね。なにか脳に変調をきたすのでしょうか。…私はこの三日間、京阪神をほっつき歩いていました。眼に触れる女という女を吟味しながらですな。これという女に出会ったが最後、電車の中であろうが、路上でであろうが、私は直ちにそれを我がものとすることが出来たことでしょう。女が顔をそむける?何でもありません。そしたら私は、そのそむけられた女の視界の中へ、この裸の札束をねじ込んでやるのです。…ところが、不思議にこの今という今、ただの一人も私の気をそそらない。妙なもんだ、え?…へへへ…ところで、私は、かつて、一度恋をしたことがあります。その娘は一人の男に凌辱されました。美しい、この上もなく気位の高い姫君でした。私は今もその姫君を愛しているに違いありません。これは死ぬまで変わりますまい。…それにしても、奇なのは、私が密かに恋する姫君がいま一人の男に凌辱される段取りは、他ならぬこの私自身がやっているのです。段取りどころか、腕をとり脚をとり、それこそ最後の最後まで…典子って名の姫君でしたがね。…その直後から、私の錬金術が始まったのです。はははは、この札束は、まあ、その廃墟の産物ですな。はははは、そいじゃ失礼」
安見はやっと口をつぐんだ。彼の燃えるような視線は、焦点を失っているみたいな感じだった。すると、つっと、席から立ち上がり、通路を、二郎の背後へと去って行った。二郎は、すぐに安見が引き返して来るものと思っていた。しかし、二十分経っても、三十分経っても、安見は戻って来なかった。
熱にうるんだ男の両眼。かすかに震える長い美しい手の指。純白の夏背広。これらの安見の印象が、二郎の脳裏に鮮明に焼き付いた。それは列車がU市へ着いても、T市へ着いても、二郎の頭から消え去りはしなかった。(つづく)


(立ち読み おわり)


(他に、短篇、『焼酎幻情』含む)


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土呂夢小説集 Ⅰ



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:SINCE 2012






土呂夢小説集 Ⅱ の 立ち読み

                  手術幻情   (97枚)

                 杏 土呂夢(あん どろむ)

      

日の出前の湖周道路をぶっ飛ばすのは、人影はもとより、車影もほとんどなく、気ままで、爽快である。
このあたりでは、道は湖岸に沿って、自然の中を、ゆるく蛇行して進んで行くのだが、湖の所々に突き出ている丘陵に差し掛かると、雑木林の中を急なS字のカーブの連続を登って峠の頂上に行き着くこととなる。
見透しの全然効かない急坂を右に切り、すぐに左に切って、また右に切ろうとした峠の頂上付近で、路肩に立っている凸面鏡に、対向車の車影が見えた。と思ったその時、道路の左側の茂みの中から、狐か鼬(いたち)かが、地面を這うようにして、男の車の前に飛び込んで来た。男は無意識に、避けようと、咄嗟にハンドルを右に切ったのだが、センターラインを割ってしまい、急カーブを曲がって、いま、姿を現した瞬間の対向車に、急ブレーキを踏み込んでいたものの、スピードを出し過ぎていたためか、男の車はスリップし、右のライトのあたりを、派手にぶつけてしまった。ポーンという、衝突の凄まじい音と共に、ライトのガラスが砕け散った。
大き目の、半透明の、黒色のサングラスをかけた背の高い女が、現われ、男の運転席を覗き込む。「どうしますか?」
男は、女が事故処理の仕方について、訊いているのだろうと思う。
「電話は?」女が訊く。男は、女が、警察か保険会社への、電話連絡のことを言っているのだろうと思う。
男は、ギアをバックに入れ、緩くアクセルを踏んでみる。女の車に喰らい付いた男の車は、感じ悪くスリップをし続けるだけで、離れようとしない。
「連絡は?」女が訊く。
「じゃ、免許証…」と女が言う。
男は、免許証を、女に渡す。名前か何かでもをメモるのだろうと思っていると、女は男の免許証を見もしないで、肩に引っ掛けていた、黒い、細い、長い革紐のついた小っちゃなレザーのバッグの中に、そのまま仕舞い込んでしまった。変わったことをする女(ひと)だな、と男は思った。しかし、男は、ひと言もしゃべろうとしなかった。
何回目かに、男が、思いっきし強くアクセルを踏み込むと、ひと揺れした後、やっと、二台の車は離れた。
男は工具で、女の車のフロント右の車輪のあたりを二、三度、力任せに捏ね上げた。走行は充分可能だろう。車はドイツ車で、ダークグリーンのロードスターだった。
女は、小さく一つうなずくと、「急いでいるので」と言って、急発進し、タイヤを軋(きし)らせ、去って行ってしまった。
峠を下り始めると、男は、ぶつけたあたりのフロント右に、かすかな異常を感じた。そこで、車を止め、女の車にしたと同じように、鉄棒をかまして、二、三度乱暴に捏ね上げた。そして、この時初めて、男の頭に、想いが一つよぎった。美しい女だ…揺るぎない…正真正銘の…なんという、…。男は、この時まで、狐か鼬(いたち)かの飛び出しと、回避、衝突のショックで脳味噌が凍てつき、きっと、失語症みたいになっていたに違いない。

「坊ちゃん、あなた免許証がどのようなものか、分っているんでしょうね」〈センセイ〉が、電話で、言っている。「信じられないようなヘマですよ。…ヘタすると、あなた、一巻の終わりにすらなりかねない…相手の…つまり、手合い次第では…。どこか、ヤバイところへでも持って行かれてごらんなさい。…どうするつもりなんですかねェ、今後?…」
男も、内心不安がないでもない。時間が経つにしたがって、むしろその念は増大して来ているみたいだ。しかし、男は言っている。「あの女(ひと)は、そんな女(ひと)じゃない。…あなたは悪く解釈し過ぎている…」
「解釈も何もありませんよ…わたしは一般的のことを、客観的に、ただ、亡き父君の顧問弁護士としてですな、言っているまでですから…当然じゃありませんか…なら、訊きますが、相手の名前は?相手の電話番号は?…尋ねていますか?…あなたも相手の免許証を預かりましたか?…それごらんなさい…全然、何もしていない…ただ一方的に、されるがまま、なされるがまま、つまり、奪われるがまま、といった体(てい)…どうです、図星でしょう…腑抜け同然じゃありませんか、極めて失礼な言い方を敢てさしていただければですよ…」
「ま、結果的には、そのようにみられても、仕方ない節(ふし)が…。しかし、本当は、それとは、ちょっと違う。まあ、全然違う。しかし、他人(ひと)に言っても仕方ない。理解されないだろう。うまく、口にはできないような、デリケイトな問題がね。つまり、手っ取り早く言えば、感情、みたいなもの。物事には、法律以上があり、法律的があり、法律以下がある。あの女(ひと)のことは、超法律、超日常、超打算、つまり、特別、不合理、不公平、即ち、一切、全て、なのだ。おれは、信頼している。また、目下、そうせざるを得ない。そうしないと、すべてが倒壊する可能性が出てくる。とはいえ、何か法律的の問題が起これば、仕方ない、あなたにお願いせざるを得ないでしょう。だが、万が一にも、そのようなことは起こらないし、…あの方はそんな方じゃないからだ。それに、もし、そのようなことが起これば、あなたの勘の方が、わたしの勘より、優(まさ)っていたというようなことになりかねない…そんなことはあり得ないし、また、あってはならない…それに、金など…慰謝料か…もし求められるのなら、即座に、いくらでも払ってしまったらいい。躊躇わず、払ってください。おれは、我慢するよ。任せるから、よろしく…」
「そんな、気違いじみた、無茶苦茶な、ほんとに、もし父君(ちちぎみ)がいらしたら、もし、父君がご存命なら、あなたなんぞ、鐚一文(びたいちもん)…お金お金といっても、父君のご遺産なんですからね、父君の残された。…わたしは、あなたの父君に管理を頼まれ、そのお約束を誓った者として、法律家としてですな…ですから、坊ちゃん、健全なる、…ご遺産だけで、その配当と金利だけで、何もしなくても、ただ健全に、配当金とお利息だけで、人並みのリッチな生活が…。もし、元金さえ目減りさせなければ、ですよ、ずっとずっと、保障できるのですから。…ほんの少しでも、元金に手を付けてはいけません。そんなことをすれば、立ちどころに、生活に困り、仕事につかなければならないような羽目に、働かなければ生きていけないような状態に…」
「仕事か、おれは仕事なんぞ望んでおらん。仕事は人間よりもコンピューター、つまり、ロボットか、ロボットに、より、向いている、ふさわしい…」
「そんな、もう…わたしはそんなことを言ってるのじゃありません…わたしは、坊ちゃん…」

「あなた?あなたですか?」電話に女の声がしている。T道路のB大橋近くの喫茶店にいるから来ないかと女は言っている。「五分で来られるでしょうね?」
「それは、無理でしょう…」
「なら、もう居ないかもしれないわよ…」
「いくらなんでも、それは無理でしょう」
「ぶっ飛ばしなさい、ぶっ飛ばしなさい、もし、あたしに逢いたいのなら」
『これは、困ったことだ』と男は思う。しかし、男は、諦めようなどとは毛頭思っていないみたいだ。
アクセルを踏み込む度に、タイヤがスリップして軋む。男は、アクセルペダルと、そのペダルを支えている細くて丸い鉄棒との溶接部分でもがヘシ折れはしないかと危ぶまれてくる程度にまで、アクセルを、極度に、乱暴に、踏み込む。そして、そのあげくは、急ブレーキー、そしてまた、急加速…男は運転席にあって、まるで、馬の曲乗りをでもしているみたいな体(てい)だ。
喫茶店に着くと、ボーイに名前を訊かれる。「そう」と男が言うと、三階の専用の個室に案内された。男の期待は裏切られ、女は独りではなく、いま一人の男と一緒にいた。「それでは…」とか「それでは、また、お電話を…」とか、いま一人の男が言っている。部屋には、黒い革張りの長椅子や肘掛け椅子とテーブルや数多くの観葉植物が置かれている。鉢に立っている名札には、大鉢で、パキラ、アラレヤ、ドラセナ・コンシンナ、それに、中鉢では、クロトン、カラテア、ストロマンテとなっている。壁には数枚額が掛かっている。ヒンドゥー教の石窟寺院やそこにある神像の写真みたいだ。『トリムールティー像 エレファンタ石窟寺院奧殿本尊』『パールバティー女神 エレファンタ石窟寺院奧殿前室浮彫』『宝輪 コナラクのスールヤ祠堂前殿基部の浮彫』『カンダリヤー・マハーデーヴァ寺院』…
「免許証を手掛かりに…」と女は言っている。そしてしばらくの間、小さく柔らかく声を立てて笑っている。なぜそう女が、にこにこ、にこやいでいるのか、男には理解できない。しかし、上機嫌の女を、輝くばかりの美女を、ほかに誰も居ない部屋の中で見つめることができるということは、激しい苦しみであると同時に、この上もない心地よさでもあった。
「…社の者に、あなたのことを、ちょっと、調べさせました」女は、また、小さく笑った。「変わっていますのねえ…珍しい方ですわねえ…」女が部下の者に調査させた、男に関するメモの一節は、大略、以下のごとくだったらしい。
「独身…無職…《一体、男は、時間をどう過ごしているのか。退屈じゃないのか。まるで仕事無しで…どんな金持ちでも、四六時中、働く。きっと働かないことに極度の不安を感じるからなのだろう。働かないことに不安を感じない者など一人もいない。働かない者は尋常ではなく、異常であり…そうではないのか…》…資産**億、主として有価証券、それに山林《すべて土地成金の一人息子として相続したもの》…教育は一応一流《一応、というのは、実のところは、分らない。大学をただ卒業したと言っても、ある種の面においては、特に、品性の点においては、極めて劣等、かつ異常なものが皆無ではない》…目下のところ、艶聞、醜聞、一切なし。かつてのことは不明。《これは調査機関の探偵たちのいうことだから百パーセントは信用できない。ヒドイ場合には、直接、当の本人からコメントをもらってデタラメを作文する探偵がいるくらいだからだ》」女の部下が、女にした報告は、大略、以上の様なものだったらしい。
ここで女の顔から微笑みが消え、女は言った。「免許証もっと大切にしなければ…わたしのクルマのこと、もういいから。…忙しいので、それでは、これで、ね」
女は、免許証を男に返した。白くきらめく長い女の指が…爪のマニキュアの銀色が…

エンドレスに流れ続けるテープからは、『悲惨な戦争』が聞こえている。女性の声が、「No,my love. No.」と歌っている。CDを切ると、自動的にラジオに変わり、株式市況で「イタガラ、****円、**円安…」と言った具合で、「総じて売り一色、小甘い程度ではない」らしい。いま、岸辺はハーバーらしく、遠目にはクルーザー級のヨットやモーターボートが湾内をびっしり埋め尽くしているのが眺められ、こちらへと登ってくる陸(おか)の上にも、台車の上に乗せられた流線型の船体が、次から次から、現れてきては、後へと流れ去る。リゾート地帯特有の傾向で、往き交うクルマは外車の比率が異常に高い。

「あなた大変な女にぶっかっていますよ」〈センセイ〉が電話で言っている。「もうこれは非常なことです」一体、何のことだか男には、さっぱり、分らない。「あの女のこと調べてみましたが、かなり手強(てごわ)い、と言うか、もうほとんど完全に強力な…パワフルな…トップレディって言うのか、なんて言うのか、医者のくせに医者にならず、つまり大学は医者の大学、医学部か、医学部を、それも、外科、外科…信じられない…出ておきながら、医者にならず、…不自由ならしい、医者は自由業だけれど、不自由ならしい。つまり、時間を縛られ、また、病人相手にあまりにも責任が重過ぎる、と女は考えているらしい。つまり、裏を返せば、かなりズボラな女と言える…もちろん、よく言えば、自由な女、だ。…社会性のない、自己中心的な…そこで何か、経営、つまり商売、輸入会社か、絵画関係の、美術…しかも、その一方で、趣味で、どこかの大学で講師をやり、インド美術…なかでも、特に、ヒンズー教寺院の石窟レリーフか…何かに特に興味があるらしい。要するに、それを大学では講じているらしい。しかも一番いけないのが、大変な、異常なまでの、美女ときている。Face & Body において、極度に…もう一目見ただけで、ただでは捨てて置けない衝動に、どうかしなければいけないという運命みたいなものの暗示に…何がどうなろうとも、もう知らない、つまり命懸けででも…気狂い…この女のために人生を狂わされた男は大学生時代から、何百人と束になって、数知れないらしい…勿論、狂う方が勝手に独りで狂っているだけなのだから、一切の責任は男達にあり、極めて迷惑なのは女の方に決まっているのだろうけれど…彼女は人目の多いところには近寄らないらしい。それは恐ろしい電気メスのような我を忘れた男達の視線に次から次と連続的に身をさいなまれているようなものだからであるらしい。アイクチのような視線が、おびただしく、刹那刹那、すれ違いざま、路上で犯しにくるのだ。美女の憂鬱どころの騒ぎじゃない。美女の悲劇だ。からだが目立ち、自然と挑発的な上に、顔がまた非常に悩ましいまでに艶(あで)やかな…ということは、心もまた、あるいは、大変な、好色女で…」
「もう結構、センセイ、わかりました。しかし、調査と言っても、それらは、ブリキみたいに平板な、誤った伝聞記事…調査会社社員の、一定時間内における一定の、つまりノルマのために、あえて作られた単調無能なブリキ作文にしかすぎない。ホラだ、ズボラなダボラだ。それにひきかえ、おれはすでに彼女と衝突しており、…事故か…衝突を通じて、彼女がどんな脳味噌コンピューターをしているのか、つまり血液コンピューターだな…感じ取っているはずだし…大切なのは、目の色、だ…彼女の目の色の意味…しかしそんなことは、いくら考えたとて分るものではない…われわれは何も理解できない。訳もなく感じ、ただ漂うだけだ…それに、もうすべては落着した。事故は無かったのだ。女神は去られたのだ。一切は、束の間の、幻影か、まぼろしか…ただ、心には、おびただしい、飢渇だけが…心臓の締め付けられるような痛みだけが…悲しみの念、だけが…どうにもならない、莫大な悲嘆が…」
「坊ちゃん、そのようなことは、そのような生々しいことは、心の奥に押し込めて、蓋をして…押さえつけられまして、抑圧に抑圧を重ね…決して口外など…それにしても、もしそれが事実なら…儲かると言うか、損せずに済むと言うか…慰謝料、修理費の点、よかった、よかった…何もかも、失われること無く、無傷でよかった。無事円満解決。これほどよいことが…」

暗闇に、ヘッドライトの光芒の中に、白く、雪が吹きつける。CDは『沈黙の音』『花はどこへ行ったの』『風に吹かれて』と続き『トルコ風ブルーロンド』『テイク・ファイブ』タンゴで『夜のタンゴ』『オレ・グァパ』ときて、ガーシュインで『ラプソディ・イン・ブルー』『パリのアメリカ人』…時は、エンドレスにCDから流れる音楽によって刻まれているみたいだ。時刻は、すでに、完全に真夜中を過ぎ、おそらく、丑の刻、丑三つ時頃、だろう。
湖周道路には、この辺りまで来れば、すでに人家は無く、一切の建物も無く、車影も無く、いま、闇と雪と孤独だけが…雪はフロントグラスに、暗闇の奥から、次から次から、盲滅法に、永遠の狂気みたいに、ぶち当たって来る。左手は、闇の奥に、湖面だろう。右手は、同じく、闇の奥で、葦の生い茂る、湿地、沼、荒れ地…ときに河口、ときに水門…湖周道路は、いま、丑の刻、人気(ひとけ)も無く、光も無く、無際限の闇と、無際限の孤独と…スピーカーはガンガンと耳をつんざくばかりの音を繰り返し…フロントグラスには、群れなし狂う雪片が…車は闇に突き刺さり…
路面は、いま、ヘッドライトに照らされて、艶やかに黒い。それは、いくらぶっ飛ばしても終わりが来ない。夜の、闇の中の、黒く濡れた、アスファルトの、直線の、起伏もない…車の左右では、事物が、猛烈なスピードで、きっと、飛び去っていっているのだろう。それは、左手は、湖面であり、右手は、荒地、葦原、沼地…だろう。
車に、遠心力が…カーブだ…左側にふくれようとする…厭な気分だ。ライトに照らし出された前景は、物凄いスピードで左に流れて行く。一体何が見えているのか定かでない。きっと、藪、雑木林、下生えの茂み、といった類(たぐい)なのだろう。道は昇っている。カーブは連続的なS字だ。湖面に、またも、岬でもが突出しているのだろうか。きっと、地形は、そんな具合なのだろう。やがて路は下りに、平地の直線となり、またも、沼、荒地、葦原(よしはら、あしはら?悪し原?)と続くのだろうか、どうなのか…
仕方なく、脇道に入り、男は車を止める。ドアを開くと、冷気が薄着の身にしみる。雪は、後から後から舞い落ちてくる。雪片は、ここでは大きく見え、牡丹雪だろう、雪はすぐに溶け、髪の毛を濡らす。巨大な、無限と連結した闇の中、ただ、ヘッドライトの光の筒の中だけに、へら雪が後から後から舞い落ちる。
男は、やがて、いま立っている前方は湖面だろう、という朧な予見みたいなものを心にもって、無謀に、前へ、暗闇の中へと進んで行く。すると、背筋がぞっとする。どうやら、一つならず、二つならず、古びた墓石が…よく見ると、なんと、墓石だらけである。ここはもしかすれば、すでに捨てられてしまった、昔の墓場みたいなところなのか…よりによって、また。…信じられないことだ。男は、今度は、反対側を…まさか、と願いつつ、恐る恐る闇の中を覗いてみる。しかし、やはりこちらも…しかも、こちら側は、湖面側よりも、もっとおびただしい数の、ほとんど闇の奥へと、いま、無限につながっているようにさえ見える古い古い墓石が…完全な、古い墓場のど真ん中に、男は…いま、丑の刻、舞い散る雪の中で…
「墓場へ、墓場の中へ…墓場で、だ…よくよく、だ」男は思う。「真夜中過ぎに、だ。暗闇の、見捨てられた、古い古い墓石の群れの中で、だ。雪は、後から後から舞い落ちてきて、だ。…おれは一体どういう運をしているのだろう。偶然迷い込んだとはいえ、どうもこの種のものが付き纏う」男の頭に、この時、車で!、だ、すぐにも脱出!という思いがよぎる。しかし、まさにその刹那、遠くに、一条の光が…光の揺れが…その光は、見る見る、こちらに近づいて来て…車のようだ。車のヘッドライトみたいだ。これはいけない。ただ事ではあるまい。時刻が時刻だけに、何か犯罪じみた。どうにもならない不自由に巻き込まれ…犯罪は、うるさいぞ。何しろ強制的だからな。自由の真反対だ。時間を、完全に、奪われてしまう。…男は、一瞬、墓場の墓石の群れの中へ逃げ込み、隠れようかと思う。しかし、車を、そこに残したままでは、かえって不自然だ。遅すぎる。すでに捕らえられている。厭な思いで、男は両のこめかみの辺りに、ヒヤーと痺れみたいなものが走るのを感じる。男は、いまでは、近づく車のヘッドライトを真っ正面から身に浴び、まばゆい光にさらされ、棒立ちしている。諦めて、すっかり観念したのだろうか、どうなのか…
ヘッドライトが消され、車は止まり、エンジンが切られる。男の車のフォグライトの淡い光の中に、舞い散る濃い雪の群れの奥に、人影が、コツコツとリズミカルな足音が、…両の肩に黒い毛皮のコートを引っ掛けた、凛々(りり)しくて高貴な、素敵なあの女の姿が…
「どうしたんです?」
「どうもしないわよ」女はほほ笑んでいる。
「人気(ひとけ)もなくて、寂しくて、まるで、荒涼とした、地の果てみたいな、ここで…」
「嫌いなの?」
「いや、嫌いでも好きでもないけれど、ちょっと怖かった…濡れるといけないから…雪…車に…」
「あたしは時々ぶっ飛ばすわよ。真夜中、頭が冴えた時…」
湖面が見てみたい、と言って、女は先になって湖側の墓場の方へ、歩み始めようとしていた。しかし、すぐに立ち止まると、男の手を、ぎゅっと、握りしめてしまった。
「親しくなりたいの」女は言った。
男には、信じられないことだった。男は一瞬とまどった。しかも躊躇(ためら)いは許されないようにも思われた。男の脳味噌コンピューターは一瞬のうちに気違いみたいにフル回転した。多くの、数知れない演算が刹那のうちに行われた。女が、おおよそ、どんな罠に、二人して掛かろうとしているのか、見当がつかないでもなかったが、突然、選択を迫られると、幾分、恐ろしいことのように思えた。新しい口づけをする度に、どうしても、いままでの自分では居られなくなるだろうし、否応無く未知の世界に歩み入らねばならない不安や苦悩や、時には、恐怖すらが待ち受けているだろうし…新しい口づけには、恐怖が…それでも男は女に口づけせざるを得ないだろう…それは、とろけるような、不自然な味の全然しない、違和感の無い完全に許し切った、柔らかい、ふっくらとしてふくよかな、夢の中でのように軽やかな、べっとりとして甘美な、一度その味を覚えてしまったら二度と後戻りすることができないような、天国で居るみたいな…その口づけは、まさに成熟し切ろうとしている女の自然から湧き出る、一切のためらいの無い…それはきっと、いま丑三つ時、闇へととろけ去る数知れない墓石の群れの中…しかし一方冷徹なものでもあった。女の毛皮のコートのお陰で、男は女を、何か抱きしめにくく、抱きしめ切れず、抱きしめても抱きしめても、その分、毛皮が反発し、長くて腰の強い毛皮の毛がつっぱっているみたいで、まるで女の体には、いつまでたっても到達できないみたいな…しかし、女の顔は、火照っていて熱く、吐く息も熱く、それは闇の奥から、いま舞い落ちてくる白い雪を溶かし、男の顔に心地よい熱を…女の脚から力が抜けていくのか、その分、いま男の腕に重みが増して来たみたいで…
雪は容赦なく舞い狂い、女の頬を打ち、髪の毛を濡らす。夜の闇は深く、時は停止してしまったみたいに、まるで時は…そして、時は…
しかし、やはりそれでも時は過ぎ、西の空の雲は切れ、星々は輝き…プレアデス星団が、ヒアデス星団が…牡牛、オリオン…ヴェテルギウス、シリウス、プロキオン…懐かしい冬の空の星々が…しかし、瞬く間に、またも、いったん蹴散らされた雲は逆巻き群がり連なり、厚く厚くとろけ合い、闇が、分厚い闇が、またしても雪片が… (続く)



(立ち読み おわり)


(他に、5篇、含む) 


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